横濱 JAZZ PROMENADE 2012

秋吉敏子インタビュー

ロング・イエロー・ロード
秋吉敏子さんに聞く

聞き手:柴田浩一
横濱 JAZZ PROMENADE ディレクター 

JAZZプロ20年、当初よりお世話になり、今年音楽生活65年を迎えた横浜ゆかりのミュージシャン、秋吉敏子さんに「長い黄色の道のり(♪1)」を伺った。

柴田:今年でデビュー65年ということですが、音楽生活を振り返るといかがでしょう?

秋吉:私(わたくし)はアメリカと日本のブリッジ(架け橋)っていう気がしますね。アメリカはいつまでたっても私の仕事場だし、日本はいつまで経っても私の国ですから。今、ようやくジャズの歴史に少しはお返しできたような気がします。積もりつもって何か残せたような。

柴田:代表作ロング・イエロー・ロード(♪1)を作った頃と心境の変化はありますか?

秋吉:あんまり変わっていませんね。あれは1961年に作った曲ですから、40年、いや、もう50年も経っているんですね(笑)。気持自体としてはあまり変わっていません。

柴田:チャールス・ミンガス(♪2)のバンドに入ったことは転機になったと思いますか?

秋吉:あの時、やっとこ家賃を払っている生活で、ミンガスからの誘いは彼の音楽が好きだっただけに運がいいなあと思いました。私は結局サイドメンとして仕事をしたのは彼のグループだけですから。すごく勉強になったなと思うと同時に、一緒に彼の音楽をやってると、今度は自分の音楽が恋しくなってくるという(笑)。それで辞めて、しばらくしたら「コンサートがあるから入れよ」みたいな調子で誘ってくれて、2回ご一緒しましたね。

柴田:ご自分の音楽が恋しくなって辞めたというのは?

秋吉:ミンガスが誘ってくれた時、「君の音楽はやらない、今はやらない」とおっしゃったんですね。それは全然構わないことだったんですが、逆に辞めた頃はもう既に自分の音楽がある程度出来ていた時代なので、自分のやりたいことをやろうかなと。

柴田:ミンガス・バンドの経験はいかがでした?

秋吉:私の音楽には猛烈に影響していますね。必ずしも音楽に限らないけれど、私は何でも経験したことは自分のためになっていると思うんですよ。それは何かの形で出ていると思うし、また出るべきだと思うんですね。少なくとも私にとって自分の作るものは、自分の感慨でありたいと思いますから。周囲から吸収したもの全部が影響を受けたことになるので、もちろんミンガスには音楽的に影響を受けていますね。

柴田:順風満帆に来られたように見えますが、ピンチはありましたか?

秋吉:ピンチ? ああ危機ですね。いやもう、危機ばっかりです(笑)。アメリカに渡って13年くらいほんと危機ばかりで、よくまあいい具合にいったなと今でも思いますけどね。止めようと思った時に、仏様が「止めてはいけない」と言ったんだと思います。そんな時、仕事が来て長く続いたりとかね。でも危機があったから考える時間が出来たんだと思います。自分とジャズと、自分が置かれている社会との関係を真剣に考えました。上手い具合にいっていたら何も考えないで済んだでしょうから。

柴田:そんな時に種をまいていたんでしょうね。でなければ実りはありませんから。

秋吉:我々の世界って、クラシックと違う所っていうのは、良い仕事をしている人でも人に気がついてもらえない、注意してもらえない、聴いてもらえないっていうことがあるし、ぜーんぜん下手な人、どこが良いんだろうなって人を皆が持ち上げたりするなんていうのもありますから。これはジャズの世界にしかないことです。だから私は今82歳になって思いますが、ファンに支えられるってことは大変ラッキーだと思いますね。私はある意味では相手のためにっていうんじゃなしに、自分のために演奏している所があるんですね。勿論ジャズのことですから調子が良かったり悪かったり。調子の良い時で何曲かよく弾けると気分良いし、トチっちゃうともうマズいし、夜も寝られないこともあったりして。だけども、皆さんが聴いて下さるっていうのは、私にとっては大変嬉しいです。

柴田:一貫して日本人を意識した作品を書かれていますが、特に1970年代からはその傾向が強くなっていますね。

秋吉:日本人がジャズをするというのは、ハンデキャップという風に思われていた時代でしたから。私がそれを意識したのは、デューク・エリントン(♪3)が亡くなった時ですね。その前に「すみ絵(67)」(♪4)を書いたんですが、そこにも日本のものが入っているんですね。意識しないで入っているんです。デュークが亡くなった時に思いました。私はアメリカに住んでいて多くの経験もあって、いわゆるジャズ・マスターと呼ばれる人たちと演奏するチャンスがたくさんある。それが私の財産なんですが、けれども他の人たちと違うのは、私は日本という文化を背負っている。だから今までジャズの世界になかったものを入れてみようと、それもジャズから飛び出すのではなく中にいてやろうと、それがジャズとしてアメリカと日本の両方にお返しが出来るかなって考えました。私は昔から猛烈に鼓の音が好きで、使いたいなって頭があったんですよ。そこにルバング島の小野田少尉さんが見つかって「孤軍」(♪5)が出来たんです。でも日本人はああいうものは好まないし、酷い評価を受けると思いました。でも、どうぞって覚悟していたら、あれギャーッと売れちゃって。私のレコードなんて売れたことなかったのに、こちらがびっくりしました(笑)。

柴田:何か目標を持ち続けるって大事なことなのでしょうね。

秋吉:自分が熱中できるものがあれば、わき見しないし。私の場合、これをやらなきゃいけないなというようなことが、ある程度やれるようになると、今度は他に課題が待ち構えているんですね。その課題は前には見えなかったもので、それをなんとか自分なりにこなせるようになると、その次の課題。だからいつも何かやらなければならないことがあって、あーっ(ため息)…でもそれが良いのでしょうね。これで良いっていうのがないんですよ

柴田:では、まだ65年ということで、やり残していることはありますか?

秋吉:ないことはないのですが、言ってしまうと出来ないと困るので(笑)。

取材:2012 年6 月7 日「GARDEN CAFE LIFETIME」にて

プロフィール

秋吉(穐吉)敏子(ピアニスト/作編曲家)
中国・遼陽生れ。1946年大分県に引揚げピアニストに。48年に上京後、横浜の進駐軍クラブで演奏を始め「ちぐさ」が勉強の場となる。56年日本人初のバークリー音楽院(現 バークリー音楽大学)留学。変遷を経て世界の頂点にたつ。横浜文化賞を始め、アメリカ国際ジャズ名誉の殿堂入りや、アメリカ国立芸術基金(NEA)ジャズマスターズ賞などの栄誉に輝いている。

  • ♪1 単身アメリカに渡り、日本人差別の中で成功を目指そうという決意の曲。
  • ♪2 ベースの巨人。ユニークなサウンドのバンドを率いた。作曲にも秀でた。
  • ♪3 20世紀最高の音楽家の一人。多くのミュージシャンに敬愛された黒人。
  • ♪4 能や雅楽の音色を大胆に取り入れ、日本人作曲家として最初に意識して書いた曲。
  • ♪5 第二次世界大戦終戦を知らぬまま、フィリピンのルバング島で孤独な戦争を続けた小野田寛朗少尉を通して、日本人の心を問うた。