Columnコラム

  • 第7回「戦後のその後:モカンボ・セッション」
    ―Wrote By 柴田 浩一―

     戦後の横浜ジャズ・シーンを語るうえで欠かせない人がいる。ピアニスト守安祥太郎だ。1955年(昭和30年)に自ら32歳の命を絶つ。だからこの人の音楽人生は短い。守安のピアノはバップ・ピアニストのバド・パウエルの模倣から始まった。そしてパウエルを徹底的に真似ることで新しいジャズ、ビ・バップに精通することになる。同じ頃、やはりバップに洗脳されたテナ-・サックスの宮沢昭と共にベースの上田剛のグループに入り、銀座のクラブに出演していたがやがてそれだけでは物足りなくなり、他流試合もある横浜でのジャム・セッションに顔を出すようになる。

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  • 第6回「戦後のその後:CBナインの巻」
    ―Wrote By 柴田 浩一―

     日本人がジーン・クルーパ・トリオのジャズを聴いた時点、これが1952年(昭和27年)。続く53年にはルイ・アームストロング・オールスターズ、JATPオールスターズと相次いで来日。日本のジャズ・ファンは本場のヴァイタリティーとスイング感に打ちのめされた。この辺りは日本のジャズ界にとって重要だ。何故か、それは日本のジャズ・ファンを二分したからだ。一方はやはりアメリカ人にしかジャズは表現出来ないよ、という人たちだ。ちょうどLPレコードが発明された直後にあたり、この人たちを中心に向けた米国盤国内プレスのレコードとか、一部代理店が

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  • 第5回「戦後はドラム・ブギーで開幕」
    ―Wrote By 柴田 浩一―

     長い長い太平洋戦争がようやく終った。横浜の町は大空襲をうけて廃墟となり遠くの方まで見渡せるようになってしまった。そんな市民の絶望感をよそに、進駐軍が次々と宿舎や施設を建て無事だった大きな建物は彼らに接収された。町をアメリカ人が我が物顔で闊歩し、ジープに乗ったMPが町中を走り回った。   そして、ようやく落ち着きを取り戻した市民が復興の意欲に燃え、住まいを建て直し、商売を再開して、町が町らしい形を整えてきた。   そんな終戦から7年目の1952年4月21日、野毛の横浜国際映画劇場(跡地は現JRA)で「ジーン・クルーパ・トリ

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  • 第4回「ニューオリンズ(大正)からスイング(昭和戦前)へ」
    ―Wrote By 柴田 浩一―

     戦前のジャズの歴史はダンス・ミュージックの歴史だ。アメリカへ渡る客船バンドとして第1回目の航海演奏の船が横浜を出たのが明治45年。アメリカへ渡り、勉強にはなっただろうが大正年間はジャズとはいっても、ダンス音楽と言い切っていいだろう。日本のダンス・ホールの草分け的存在であった鶴見の花月園舞踏場は大正12年(1923)の関東大震災によって、たった3年で幕を閉じた。だが横浜にはもう一つのダンス・ホールがあった。明治の時代を経て蓄音機でダンスが踊れる“チャブ屋”だ。この語源については諸説あるがCHOP HOUSE(食堂)というの

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  • 第3回「日本初のジャズ評論」
    ―Wrote By 柴田 浩一―

     前回に引き続きもう少々”初めて“について書いてみたい。天勝ジャズ一行が全国興行をまる1年かけて終えたその月、大正15年(1926)8月28日付けの横濱貿易新報の広告頁に「ツバメ印ニットーレコード九月新譜売り出し」を見つけた。その中に”浪花節 大石東下り“等とならびハーモニカジャズが載っている。演ずるはジャズ・ハーモニカバンド、曲は「活惚」、「春雨」。ハハハ、いいね。実態は判らないが日本人として”トゥーツ“シールマンスより先であることは間違いないということだ。 翌日の8月29日に連載物の音楽評論の4回目がある。書き手は三浦

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  • 第2回「日本最初のジャズ」
    ―Wrote By 柴田 浩一―

     喜樂座、天勝公演の広告との出会いは、神奈川新聞の前身である横濱貿易新報の大正年間の音楽記事のみを取り出した本の購入がきっかけだった。  そこから興味を覚え調べることになったが、どこの地でも日本で初のジャズ演奏には関心が高く、ウチは明治時代にジャズを演奏していたと、本家のアメリカでも発展途上の時期なのに、この件に関してはまことに五月蝿い。  この際、1925年(大正14年)6月19日の天勝の帝劇興行前のラジオ出演こそ、日本最初であることを証明しこの話を終えたい。  ちょうど今世紀が始まるときに区切りがいいと考えたか、ジャズ

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  • 第1回「喜樂座天勝帰朝公演」
    ―Wrote By 柴田 浩一―

     現在の伊勢佐木町3丁目96番地には、かって映画館も入っていた日活会館という建物がある。今は地方都市の雰囲気を漂わせる商店街のゲーム・センターが入るビルになってしまった。ここにはかって殷賑(いんしん)を極めた町があり芝居小屋「喜樂座」があった。  大正14(1925)年7月1日(水)この「喜樂座」で美貌の奇術師、松旭斎天勝が帰朝披露公演を行った。天勝は前年の1月に横浜を出港、ホノルル経由でサンフランシスコからアメリカ興行を開始した。そして1年以上も全米各地やカナダを巡った。その間、商才に長けた天勝らしく芸人のスカウトにも余

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  • フランク・シナトラ、酒と女とギャンブルと
    ―Wrote By シナトラ・ソサエティー・オブ・ジャパン代表 三具保夫―

     酒とギャンブルと女は男の甲斐性という人もいるが、ほどほどにしないと体を壊す、借金地獄に陥る、ストーカー扱いされるで、いいことはない。しかしシナトラは人生の達人、酒にも賭博にも女性にもめっぽう強かった。 まずはお酒だが、シナトラの大好物がテネシー・ウィスキーのジャック・ダニエルズだったことはよく知られている。がぶ飲みをして前後不覚になることはあまりなかったようだが、一度ジョン・ウェインに毒づいて一撃を喰らったことがあったとか。1991年のワールド・ツアーではスコッチ・ウィスキーのシーバス・リーガルがスポンサーにつき、シナト

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  • 「サンキューベリマッチ!」
    ―Wrote By 堀越千秋(画家)―

     今年も又、板橋文夫オーケストラの背景でライブ・ペインティングをさせて頂くことになった。 甘露至極である。 何しろ、すぐうしろでかの面々が、狂気にのって演奏しておられる。そこへするすると出て行って、僕の勝手な絵を描いていいのだ。横十メートルたて六メートル。 さあお好きな絵を描いて下さい。但し時間制限が一応あって、演奏より長びいてはいけません。 布は僕が準備する。近所の山の女の子に頼んで縫ってもらった。でかいから大変だ。僕がぶらぶらしている間に、2人がかりでやってくれた。 それを幕間に裏方の皆さんと僕らの仲間でアッという間に

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  • 横浜・ジャズの跡
    ―Wrote By 山上英男―

    列車が通過するたびに ぼくは南に行きたくなる・・・ ホームシックのブルースだ 誰かぼくに教えてくれ 自由列車のことを・・・          (ラングストン・ヒューズの詩句断片)   先日、家内と一緒に横浜のジャズ・シーンをしのぶツアーに参加した。  20人が2組に分かれて、桜木町から野毛、日ノ出町、長者町、伊勢佐木町、関内へと歩き、最後に赤レンガ倉庫でディナーという行程だった。  ディナーの席では、横浜JAZZ協会・柴田浩一さんの講演があった。      ◆ジャズ喫茶<ちぐさ>の跡   新宿や渋谷でジャズを聴いていた19

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