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ジャズ創生期の名女性トランペッター

―Wrote By大西正則(SPコレクター)―

 女だてらに、と言う言い方はアメリカでは差別用語として禁句であるが、近頃のジャズシーンでの女性の活躍振り、特に日本においてはピアノとアルトサックスの分野では女だてらにどころか男性を凌いでの実力と活躍振りである。 
 アメリカでは、キャンディ・ダルファー、イギリスではバーバラ・トンプソンと、いずれも美形のサックス奏者が人気となっているところをみるとやはり、‘だてらに’という見方はあちらの国にもあてはまるようで、ジャズプレイヤーとしての本物の評価とは別物の感がしないでもない。さて、女性のジャズ奏者としてのパイオニアは、キング・オリバー楽団のピアニストであのルイ・アームストロングを、世界の桧舞台に送り出すきっかけを作ったリル・ハーディンである。彼女はやがてルイの二度目の夫人となった。1923年頃のシカゴでのことである。以来、多くの女性ピアニストがジャズシーンに登場するきっかけとなったのだが、ブラスやリード奏者たちについてはどうであったのであろうか。 
 実は、1920年代の半ば頃から50年代にかけては全女性のジャズバンドが隆盛を極めた時代であった。シカゴやハリウッド、そしてニューヨークの高級ホテルが競って女性のフルバンドを雇い、ディナーショーやダンスショーに艶やかさ添えて宿泊客の獲得に利用したからだ。全国から、また世界中からの観光客を夜な夜な楽しませるには、黒人のビックバンドよりは美形で美脚揃いの楽団を雇ったほうが効果があるという訳だ。有能で美しい女性ミュージシャンを集めるためにホテルの担当者は全国を巡ってオーディションをしたと言う時代であった。ただ、殆どのバンドはコマーシャルでコミックやセクシーを売り物とするものであった。この辺りの様子は現在では沢山の当時のフィルムがVideoやDVDになって発売されているので見られた方もおられると思います。それらの画像で見られる美女バンドには譜面台を置いていないことにご注目を。美脚を隠すことはないと言うわけだ。しかし彼女らの中には、体力と奏法の点でのハンディキャップを乗り越え男性奏者には一歩も引けをとらないばかりかジャズ史に残る巨人の域に達した名手達もいた。 
 この稿では、ジャズ創生期からの偉大な女性トランペット奏者について述べてみたいと思います。まずは、Dyer Jonesである。なんと彼女はルイ・アームストロングが世に知られる以前の、1920年代の初めに既にシカゴで演奏していたトランペッターであった。(ルイは1920年にはまだニューオリンズにいた)20年代の名ドラマーとして知られているトミー・ベンフォードの言によると、当時、彼女はただ一人の黒人女性トランペッターでダンスバンドでリードも吹いていて、男性も羨むほどのハイノートヒッターでもあったという。1929年にはニューヨークのブロードウェイにあったアルカディア・ボールルームに常時出場していたサミー・スチュアート楽団に所属していてサミーはよく彼女をフィーチャーしていたと、当時の同僚であったアイク・ロビンソンの証言もある。そして、その時にいつも彼女にまとわりついていた少女がいた。この少女はやがて母(Dyer)と同じくトランペットを手にして30年代には母を凌いで‘女ルイ・アームストロング’と言われるようになったDolly Jonesである。母に奏法の基本を学んだあと、徹底的にルイの奏法を研究してリル・ハーディンが作ったオール・アメリカン全女性バンドに迎えられてスター・ソロイストになったのだ。キング・オリバーのレガートと、ルイの強力なアタックを適度に調和させたような演奏はTbのアル・ワインと共演したレコードでも聴ける。日本では63年頃に「ジャズ・オデッセイ シカゴ編」の中に収録されており油井正一氏が初めて紹介していたが、女性と聴いてビックリしたものである。母親よりも次の世代なので、より身近な偉大なトランペッターの証言がある。ドク・チーサムは「ルイの奏法の全てを熟知していて完璧にこなしていたね。トランペットは彼女の全てで寝るときも食事の合間でも常にラッパを離さなかった。とても上手かったので、誰でもDollyのラッパを聞きたがっていたものさ。」ロイ・エルドリッジも「当時、私はフレッチャー・ヘンダーソン楽団に所属していたのだが、バンドの仲間はいつもDollyの噂をしていたものさ。バンドの仕事が終えてから、一緒に朝方の3時ころまでジャムセッションをしたこともあるけれども、ぼくの強いアタックやビートは彼女からの影響さ。黒人女性のステータスがあの頃にあったとしたら、必ず大スターになっていたプレイヤーだと思うよ」と言っている。Dollyは、1937年に作られた映画(SWING)の中でDoli Armena Jonesの名で出演して力強い奏法で「China Boy 」と「I May be Wrong」を演奏しているというが小生は未見である。
  もう一人、初期のトランペッターで忘れられない人がいる。“トランペットの女王”といわれた黒人プレイヤーでその名はValaida Snowという。スノーも母親からトランペットを習った。姉二人も歌手だったといのだから音楽一家だったのだろう。1924年にはニューヨークのブロードウェイで黒人女性のスターだったエセル・ウォーターのショー(Rhapsody in Black)のバンドでデビューをしている。スノーが他の女性トランペッターと違うのは、ラッパの他にダンサーでもあり歌手でもありピアニストでもありそしてヴァイオリニストという多才ぶりだ。この多才ぶりを買われてか、1926年から世界中のホテルでのショーに出演してあるいた。なんと1928年にはインド、上海を経由して東京でも公演したという。1934年にはロンドンを訪れたが、このときは丁度ルイ・アームストロングが初めて訪れた後だったのでスノーのルイ顔負けの演奏はセンセーションを巻き起こし、著名なジャズ批評家のブライアン・ラストは興奮のあまりスノーに「トランペットの女王」の称号を送った程だった。事実、アメリカではレコーディグの機会がなかったスノーだったが、イギリスでは1935年から37年にかけて16枚(Perophone)もの、そして39年から40年にかけてはコペンハーゲンとストックホルムでのレコーデングと多くのコンサートに出演している。 
今では原盤(SP)の入手は困難ではあるが、下のLPやCDで彼女の軌跡をたどることができる。 
Harlem Comes to London.? DRG Records SW 8444 Swing, 1929-38? 
Hot Snow: Valaida Snow, Queen of the Trumpet, Sings and Swings. Rosetta Records RR 1305, 1937-50 
My Heart Belongs to Daddy.? Sonora 3557, 1939 
Valaida: High Hat, Trumpet and Rhythm.?? World EMI SH 309
 アメリカでは差別からか冷遇されたスノーだったが、ヨーロッパでは大変な人気であった。しかし戦争が激しくなった1943年に帰国して終戦まで慰問などの仕事を続け、56年にニューヨークで他界した。30年代のカンサス・シティといえば、カウント・ベイシーやレスター・ヤング、ベン・ウエブスターなどが活躍して街中にジャズの熱気が満ち溢れていた頃だ。このころにも男性顔負けの黒人女性トランペッターがいた。Tiny Davis(1907-1956)だ。本名はErnestineというのだがデブチンの大女だったのでその逆のチビ(Tiny)という渾名をオール女性バンドのリーダーだったAnna Mae Wilburnによって付けられていた。デービスには5人の女姉妹と2人の男兄弟がいたが、前記の二人と違って彼女の家族の誰も音楽には関心がなかったようだ。高校のころに町にやってきた34人編成の楽団に、ただ一人トランペットを吹いている女性のかっこ良さに憧れて家に帰るなり母にトランペットを買ってくれるように頼んだのがきっかけという。当時レコードで人気のあったマ・レイニーやマミー・スミスなどのブルース歌手には関心を示さずカンサス・シティのナイトクラブを出発点にトランペットを吹くことに夢中になったという。そのころのカンサス・シティには,女性の腕利きのジャズピアニスト例えばメリー・ルー・ウイリアムスやジュリア・リー、マーガレット・ジョンソン等がいたのでジャムセッションの相手にはこと欠くことはなかった。「私のアイドルは勿論ルイ・アームストロング。高校の頃から徹底的にルイの奏法を研究してルイにそっくりに吹いたものよ。特にマック・ザ・ナイフなんて寸部も違わないように吹くことができたのよ。」と、デービスは語っている。彼女は黒人女性だけのバンド(Harlem Playgirls)も結成したが1939年にはカンサス地域で活動していた黒人男性バンド・リーダーのジェシー・ストーン楽団に雇われてなんと10年も在籍していた。ストーンは彼女のトランペットをフィーチャーして「ハーレム・ノクターン」や「言い出しかねて」を並み居る男性トランペッターを差し置いて演奏したという。実力のほどが知れようというものだ。戦後はツアーを停止したがその理由はまだ差別が残っていた時代に楽旅を続けることに疲れ果てたためだという。ニューヨークに帰ってきてからは、アポロ劇場や42番街のジャズストリートで’Hell Diver’という6人編成の黒人女性バンドを率いて活動していた。
  さて時代は少し下って40年代になると、優秀な白人女性トランペッターが登場してくる。Estella Slavinだ。彼女に付けられたTag Line(呼び名)は「女性ハリー・ジェームス」だ。スラビン自身は黒人のロイ・エルドリッジがアイドルだったという。彼女も若い頃にミュージシャンだった父にトランペットの手ほどきをうけている。艶かしいセクシーな指揮で有名だった金髪リーダーのIna Ray Hutton楽団の、三人のトランペットセクションの中の左端の小柄な美人がスラビンである。40年代には自分のバンドも率いていたがハットンのバンドに引き抜かれた。当時の人気黒人バンドのジミー・ランスフォード楽団が最も好きだったというから、ランスフォードのアレンジをよく使ったレイ・ハットンのバンドでの演奏には満足しただろう。スラビン自身は50年代の後半まで吹いていたが、スラビン曰く「女性バンドの維持は、スタープレイヤーが結婚などや地方への楽旅の辛さと体調の維持ができなくて辞めていくので難しいのよ」と語っている。「でも、私自身でも信じられないのだけれども綺麗なバラードを吹いたり、Bopを演奏することも好きなのよ」そのスラビンも、さすがに60年代に入るとラッパを置いてインテリア・デザイナーとして新たな道を選んだ。残されているIna Ray Hutton楽団の映像に若きスラビンの勇姿を見ることはできるが、時代が変わり、音楽も聴衆の要求も彼女たちの音楽を必要としなくなってきたのもラッパを置いた理由であろう。

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