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第6回「戦後のその後:CBナインの巻」

―Wrote By柴田 浩一―

 日本人がジーン・クルーパ・トリオのジャズを聴いた時点、これが1952年(昭和27年)。続く53年にはルイ・アームストロング・オールスターズ、JATPオールスターズと相次いで来日。日本のジャズ・ファンは本場のヴァイタリティーとスイング感に打ちのめされた。この辺りは日本のジャズ界にとって重要だ。何故か、それは日本のジャズ・ファンを二分したからだ。一方はやはりアメリカ人にしかジャズは表現出来ないよ、という人たちだ。ちょうどLPレコードが発明された直後にあたり、この人たちを中心に向けた米国盤国内プレスのレコードとか、一部代理店が輸入していたレコードが高価ではあったが売れるようになっていく。方や日本のミュージシャンに惚れ込みファンとして支えるというタイプだ。これら外国人タレント来日に時を同じくして日本でもグループの結成が広がり、中でも後のナベ・プロ社長となる渡辺晋のシックス・ジョーズを筆頭に、一般大衆に支持された人気グループが次々と出現する。そんな外国偏重派と国産支持派が分かれた時代でもあった。

 ここではジャズ・ブームに至る前に登場し、本格的なビ・バップを志向したクランベーク・ナインについて書く。クラン・ベーク、焼ハマグリというグループ名はヨコハマにかけて名づけられた。結成は1949年の昭和24年というから戦後すぐの団塊の時代だ。中心人物にはリーダーで編曲もやる馬渡誠一(as)、そして海老原啓一郎(as)、北里典彦(tp)、清水閏(じゅん)(ds)がいた。戦中は敵性音楽として禁止されていたJAZZが、戦後なだれのごとく入ってきたのだから、それを受止めるミュージシャンも大変だったに違いない。そのJAZZの流れを的確に読み、いち早くバップ・イディオムを身につけた馬渡誠一や海老原啓一郎はすごい。さらにジーン・クルーパに酔っている時代にバップのリズムをたたき出そうとしたドラ金こと清水閏もすごかった。デヴューの場所も駐留米軍のそれも黒人クラブという最も厳しい場所だ。だがこのグループは演奏もする米兵たちの人気も勝ち取り、彼らがステージに飛び入りすることもしばしばあったという。その後CBエイトの時期に松本英彦(ts)も加わり、再度CBナイン、お終いにはCBシックスとして活動したが約2年半程でグループは解散した。

 短い活動期間ではあったが、このグループが日本ジャズ界に残した功績は大きい。このCBナインが抜けた後、クラブのハウス・バンドとして入ったのが前出のシックス・ジョーズだ。松本英彦はジョージ川口の元へ行き、小野満、中村八大と共にジョージ川口ビッグ・フォー結成した。そしてシックス・ジョーズと共にジャズ・ブームの頂点にたった。

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