戦後の横浜ジャズ・シーンを語るうえで欠かせない人がいる。ピアニスト守安祥太郎だ。1955年(昭和30年)に自ら32歳の命を絶つ。だからこの人の音楽人生は短い。守安のピアノはバップ・ピアニストのバド・パウエルの模倣から始まった。そしてパウエルを徹底的に真似ることで新しいジャズ、ビ・バップに精通することになる。同じ頃、やはりバップに洗脳されたテナ-・サックスの宮沢昭と共にベースの上田剛のグループに入り、銀座のクラブに出演していたがやがてそれだけでは物足りなくなり、他流試合もある横浜でのジャム・セッションに顔を出すようになる。
守安は変人でもあったらしい。いわゆる曲弾きと呼ばれる曲芸のように、ピアノの下から手だけ出して弾いたり、椅子に後ろ向きに座り右、左反対に弾いたり、さらにステージで踊りだすという奇癖を持っていたようだ。
そんな彼が名を残すことになったのは「モカンボ」での歴史的なセッションがあったからだ。さらにこの模様が録音されていたからこそ守安は伝説のピアニストになった。伊勢佐木町2丁目のビル地下にあったナイト・クラブ「モカンボ」。もっとも開店時の垂れ幕にはキャバレーと書かれているので当時としてはどちらも同じ業種なのだろう。このジャム・セッションは3回行われた。ミュージシャンが自主的にこのセッションを仕切った。だから店側は単に会場を貸したということのようだ。レコーディングされたのは3回目の昭和29年の7月27日(火)の深夜からのものだ。録音したのは当時、学生の岩味潔氏で手製の重量級テープ・レコーダーに、強く引けば切れる紙テープという、今では考えられないような代物を駆使しての録音だ。だがそれが日本ジャズ史上もっとも貴重な記録となった。
入場料は500円。幹事役だったハナ肇によれば全員から徴収したようだ。集ったミュージシャンは判っているだけでも守安祥太郎、穐(あき)吉敏子、ハンプトン・ホース、石橋エータローのピアニスト、サックスでは宮沢昭、渡辺明、五十嵐明要、渡辺貞夫、与田輝雄、海老原啓一郎が顔を揃え、ベースでは金井英人、滝本達郎、ドラムではハナに加え清水閏、五十嵐武要、原田寛治、そして杉浦良三(vib)や高柳昌行(g)等だ。沢田駿吾と植木等の両ギタリストは幹事役だ。
演奏は今、聴いても熱気が伝わる。演奏者だけではなく、その夜「モカンボ」に集った人々が発する気だ。こうなると録音の良し悪しを超えた次元だ。演奏については特に守安と宮沢が清水閏のドラムに鼓舞され入魂のプレイをする。二人ともこの時点では他の人よりも頭一つは出ていたのだろうが、守安がビ・バップを自分の音楽としているのに驚く。
ここに集まった演奏家たちはその後それぞれの道を歩むことになるのだが、日本のジャズのスタートはこの夜にあったといっても過言ではない。もはや戦後ではなくなったのだ。
日本人がジーン・クルーパ・トリオのジャズを聴いた時点、これが1952年(昭和27年)。続く53年にはルイ・アームストロング・オールスターズ、JATPオールスターズと相次いで来日。日本のジャズ・ファンは本場のヴァイタリティーとスイング感に打ちのめされた。この辺りは日本のジャズ界にとって重要だ。何故か、それは日本のジャズ・ファンを二分したからだ。一方はやはりアメリカ人にしかジャズは表現出来ないよ、という人たちだ。ちょうどLPレコードが発明された直後にあたり、この人たちを中心に向けた米国盤国内プレスのレコードとか、一部代理店が輸入していたレコードが高価ではあったが売れるようになっていく。方や日本のミュージシャンに惚れ込みファンとして支えるというタイプだ。これら外国人タレント来日に時を同じくして日本でもグループの結成が広がり、中でも後のナベ・プロ社長となる渡辺晋のシックス・ジョーズを筆頭に、一般大衆に支持された人気グループが次々と出現する。そんな外国偏重派と国産支持派が分かれた時代でもあった。
ここではジャズ・ブームに至る前に登場し、本格的なビ・バップを志向したクランベーク・ナインについて書く。クラン・ベーク、焼ハマグリというグループ名はヨコハマにかけて名づけられた。結成は1949年の昭和24年というから戦後すぐの団塊の時代だ。中心人物にはリーダーで編曲もやる馬渡誠一(as)、そして海老原啓一郎(as)、北里典彦(tp)、清水閏(じゅん)(ds)がいた。戦中は敵性音楽として禁止されていたJAZZが、戦後なだれのごとく入ってきたのだから、それを受止めるミュージシャンも大変だったに違いない。そのJAZZの流れを的確に読み、いち早くバップ・イディオムを身につけた馬渡誠一や海老原啓一郎はすごい。さらにジーン・クルーパに酔っている時代にバップのリズムをたたき出そうとしたドラ金こと清水閏もすごかった。デヴューの場所も駐留米軍のそれも黒人クラブという最も厳しい場所だ。だがこのグループは演奏もする米兵たちの人気も勝ち取り、彼らがステージに飛び入りすることもしばしばあったという。その後CBエイトの時期に松本英彦(ts)も加わり、再度CBナイン、お終いにはCBシックスとして活動したが約2年半程でグループは解散した。
短い活動期間ではあったが、このグループが日本ジャズ界に残した功績は大きい。このCBナインが抜けた後、クラブのハウス・バンドとして入ったのが前出のシックス・ジョーズだ。松本英彦はジョージ川口の元へ行き、小野満、中村八大と共にジョージ川口ビッグ・フォー結成した。そしてシックス・ジョーズと共にジャズ・ブームの頂点にたった。
長い長い太平洋戦争がようやく終った。横浜の町は大空襲をうけて廃墟となり遠くの方まで見渡せるようになってしまった。そんな市民の絶望感をよそに、進駐軍が次々と宿舎や施設を建て無事だった大きな建物は彼らに接収された。町をアメリカ人が我が物顔で闊歩し、ジープに乗ったMPが町中を走り回った。
そして、ようやく落ち着きを取り戻した市民が復興の意欲に燃え、住まいを建て直し、商売を再開して、町が町らしい形を整えてきた。
そんな終戦から7年目の1952年4月21日、野毛の横浜国際映画劇場(跡地は現JRA)で「ジーン・クルーパ・トリオ」の公演がおこなわれた。米兵慰問団はそれまでにも、ボブ・ホープとレス・ブラウン・オーケストラや、ハワード・マギー、J.Jジョンソン等を擁するオスカー・ペティフォード・スインギング・ジャンボリーが来日していたが、キャンプ廻りのみで一般公開はなかった。今回は米軍相手だけではなく日本人のためにも東京のアーニー・パイル(宝塚劇場)や大阪公演も予定されていた。初めて本場のジャズに直に触れることが出来る。しかもあのベニー・グッドマン・オーケストラで有名だった大スター、ジーン・クルーパだ。ジャズ・ファンが色めきたっただろうことは想像できる。横浜公演の実現は“ちぐさ”の吉田さんの本によれば、横浜国際に関係がある人が、クルーパ・トリオを羽田まで出迎えに行った際に頼み込んだらしい。この公演は予定外で急遽組まれたものだった。本では劇場側も急なことで宣伝も出来ず、大慌てで電柱柱にチラシを張ってお客を集めたとあるが、前日の20日の神奈川新聞に劇場の宣伝として小さく載った。
ジーン・クルーパ(43)のドラムス、チャーリー・ヴェンチュラ(38)のテナー・サックス、そしてテディ・ナポレオン(35)のピアノの3人。当日の国際劇場は “カンヌ世界映画祭”、“夜明け”、“ピカソ訪問”の映画3本立で100円。特別公演のクルーパ・トリオは一般300円と学生200円。音に飢え、娯楽を求めていた横浜市民は今まで聴いたことのない本場のジャズを聴き、悲しい敗戦の痛手を忘れて大熱狂で応えた。それを受けた3人は「日本のファンは音楽に理解が深い、でなけりゃあんなに拍手はくれない」というコメントを残した。GHQの思惑が見え隠れするな。それはともかく横浜の戦後はドラム・ブギーで派手に始まった。
このクルーパ・トリオ、19日の来日でその日から5日間連続17ステージを消化するという驚異的なタフさをみせた。24日には横須賀へ行き、基地内の海軍病院を慰問し夜はグランド・シマで演奏を行った。26日は大阪で最後の公演を行ったが一晩4ステージで50万円、この金額が関係者を驚かせたと新聞にある。うーん?現在の価格にすると入場料から推して15倍、て、いうことは750万円ナリ。こりゃあ凄いや。
戦前のジャズの歴史はダンス・ミュージックの歴史だ。アメリカへ渡る客船バンドとして第1回目の航海演奏の船が横浜を出たのが明治45年。アメリカへ渡り、勉強にはなっただろうが大正年間はジャズとはいっても、ダンス音楽と言い切っていいだろう。日本のダンス・ホールの草分け的存在であった鶴見の花月園舞踏場は大正12年(1923)の関東大震災によって、たった3年で幕を閉じた。だが横浜にはもう一つのダンス・ホールがあった。明治の時代を経て蓄音機でダンスが踊れる“チャブ屋”だ。この語源については諸説あるがCHOP HOUSE(食堂)というのが有力だ。そしてそれは表向きでありいわゆる外国人、特に船乗り相手の私娼館だ。今の小港の山手警察署の裏あたりから本牧十二天へと続く道沿いに20を超える店舗があった。さらに石川町駅から山手に上がる大丸谷あたりにも10軒を超える店があったという。本牧の方は長谷川伸や谷崎潤一郎の本などに登場するほど有名で、切り立った崖の十二天に寄せる波や砂浜に映える松、そして真っ青な海、外国人にとってはユートピアだったに違いない。そういう店では朝までダンスが踊れたという。日本人には一般的とはいえない場所だが、ダンス好き、洋楽好きが船の出たあとの暇な時に遊びに行ったのだろう。
昭和4,5年(1929)ごろには市中にもダンス・ホールが続々と出来た。時を同じくしてジャズ喫茶も登場した。世界大恐慌時代という不況下にもかかわらずだ。「ちぐさ」店主吉田衛さんによれば横浜では吉田町の「メーゾン・リオ」が最初だという。このジャズ喫茶の方がレコードによるものだけにジャズ史としては判りやすい。「ちぐさ」は少し遅れて昭和8年の開店。そのころアメリカではスイングの王様となるべく、ベニー・グッドマンが着々と準備を進めていた。吉田さんによれば当時のリクエストのベスト・スリーは「タイガー・ラグ」、「セントルイス・ブルース」、「ダイナ」だったそうだ。「リンゴの木の下で」や「君微笑めば」なんかも入っていそうだな。
こうしたいい時代も続かない。昭和15年(1940)の暮には市内に多くあったダンス・ホールが士気に影響するからであろう、すべて閉鎖され18年には敵性音楽としてジャズ・レコードの演奏禁止、供出、破棄となった。アメリカではグッドマンがカーネーギー・ホール・コンサートを成功させ大スターとなった。しかしクルーパ、ハリー・ジェイムス、テディ・ウィルソン、ハンプトン等のスター・プレイヤーたちは彼の元を離れ、ベイシー・バンドの台頭、エリントンの最強バンド時代、アメリカのジャズ界が目まぐるしいスピードで動く中、日本も急加速で真っ暗闇に突入して行く。
前回に引き続きもう少々”初めて“について書いてみたい。天勝ジャズ一行が全国興行をまる1年かけて終えたその月、大正15年(1926)8月28日付けの横濱貿易新報の広告頁に「ツバメ印ニットーレコード九月新譜売り出し」を見つけた。その中に”浪花節 大石東下り“等とならびハーモニカジャズが載っている。演ずるはジャズ・ハーモニカバンド、曲は「活惚」、「春雨」。ハハハ、いいね。実態は判らないが日本人として”トゥーツ“シールマンスより先であることは間違いないということだ。
翌日の8月29日に連載物の音楽評論の4回目がある。書き手は三浦俊三郎氏でタイトルは「国民性と時代相とを基礎とした~新音楽の出現」だ。
これも原文を生かし書き出してみよう。「米のジャッズ音楽は低級であるとて太平洋横断させてはならぬと迄言った、某教育音楽者の言の伝わらぬうちに、既に同音楽の匂いも天勝一行によって小さいジャッズバンドながらも全国的に紹介された。堅実な国民性を破壊するものだとか、性的な挑発的な楽音の持主だという、一概には論ぜられないが私も一度聞いて大いに考えさせられた。
人間のあらゆる情緒を表現される交響楽の歓喜へと若き魂は帰向していく。軽快なハーモニカにマンドリン、潤の豊かなギターにハープ、挑発的なバンジョーにタンバリン、滑稽味のあるカスタネット、肉声に近いチェロの力強さ、ヴァイオリンの嘆きにクラリネットの劇的なフリートの技巧的で深味もない可憐さ、トロンボーンの雄大荘厳に対してトランペットの歓喜、オーボエの叙情的な涙からベースの絶望へと、人間の情緒とその変化を物語る響きに耳をそばだてている。」
初めて触れた音楽にしてはおおむね好意的だ。この三浦氏、未だ音楽評論などという分野が確立されてないこの時代に外国の音楽を評価し、日本の音楽界を鼓舞しようとしている。この文章はジャズ評論の第1号であり、音楽評論家としても日本最初の人だろう。横浜の人だ。
この連載の最終回にあたる9回目の最終章では、外国の音楽と対立する前に日本人の偉大な作曲家が出現することを望み、こう締めくくっている。「真実の新しい音楽、時代相を背景とする国民楽、国民性を基礎とした大日本の音楽が生まれ出て、我々国民が心からその大酔歓喜の栄光を歌う時を願って止まないのである。」
喜樂座、天勝公演の広告との出会いは、神奈川新聞の前身である横濱貿易新報の大正年間の音楽記事のみを取り出した本の購入がきっかけだった。
そこから興味を覚え調べることになったが、どこの地でも日本で初のジャズ演奏には関心が高く、ウチは明治時代にジャズを演奏していたと、本家のアメリカでも発展途上の時期なのに、この件に関してはまことに五月蝿い。
この際、1925年(大正14年)6月19日の天勝の帝劇興行前のラジオ出演こそ、日本最初であることを証明しこの話を終えたい。
ちょうど今世紀が始まるときに区切りがいいと考えたか、ジャズ100年という言葉が使われた。20世紀初頭にジャズ誕生という決まりきったフレーズが生きているのだ。だがそうだろうか。じつはジャズの誕生はいつかということ自体が難しい。ジャズという言葉が生まれたのとジャズという音楽の誕生は一致しないのだ。言葉はO.D.J.B.(オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド)の記録から1917年と確定できる。音はどうか、これも記録された音源を聴けばある程度の判断は可能だろう。
考え方を変えて逆に誕生時期よりも完成といえば、1928年6月28日録音のルイ・アームストロングの「ウエスト・エンド・ブルース」だ。ビックス・バイダーベックの27年10月5日の「ジャズ・ミー・ブルース」、「アット・ザ・ジャズ・バンド・ボール」も考えられる。いずれも素晴らしい演奏で誕生はこの時点からさかのぼって行く。そう考えると1920年代の初頭にようやくジャズ風の音楽がまとまりつつあり、ジェリー・ロール・モートンの26年のビクター録音あたりで一気に開花したと考えるのが妥当である。だからそれ以前はジャズと名乗ってはいてもジャズ風に他ならないし、ジャズの特徴であるバイタリティーやインプロヴィゼーションなどない単なるダンス音楽だ。ならば天勝の帰朝公演もジャズ風ではないかといわれそうだが、まさしくジャズ風なのだ。ただしニューヨークで編成したセプテットの演奏であることや、ピアニストF.Bオコニエフも当時ジャズ風音楽が盛んだったデンヴァー出身であること、演奏曲名がはっきりしていることが日本初の理由となる。
現在の伊勢佐木町3丁目96番地には、かって映画館も入っていた日活会館という建物がある。今は地方都市の雰囲気を漂わせる商店街のゲーム・センターが入るビルになってしまった。ここにはかって殷賑(いんしん)を極めた町があり芝居小屋「喜樂座」があった。
大正14(1925)年7月1日(水)この「喜樂座」で美貌の奇術師、松旭斎天勝が帰朝披露公演を行った。天勝は前年の1月に横浜を出港、ホノルル経由でサンフランシスコからアメリカ興行を開始した。そして1年以上も全米各地やカナダを巡った。その間、商才に長けた天勝らしく芸人のスカウトにも余念がなく一座に多くの仲間を加えていった。オコニエフ夫婦は歌とピアノ、ダンサーのG.ヴァージニア、そしてジャズ・バンドのカールC.ショウ・カンパニーだ。
その凱旋公演の幕開けは7人編成の賑やかなジャズ・バンド演奏に乗って、ヴァージニアを中央に一座の花形総出演のライン・ダンス。まさに浜っ子の度肝を抜いた。この時、演奏された曲は「ライム・ハウス・ブルース」、「シャイン」、「サムバディ・ラヴス・ミー」。あとはどうもカントリーやマーチのようだ。ミセス・オコニエフの歌もソプラノでジャズとは関係ないだろう。ただ特筆出来るのはG.ガーシュインが前年のミュージカル「ジョージ・ホワイトのスキャンダラス」に書いたナンバー「サムバディ~」が演奏されたことと、ブルース演奏は、今のような情報網がない当時として驚くべきスピードだ。さすがアメリカ土産といっていい。残念なのはバンドの編成が判らないことだ。この頃はニューオリンズ・ジャズがシカゴで花開き、ニューヨークでもブルース感覚を取り入れたジャズが生まれている時期だ。先見性に優れた天勝ならば新しいスタイルを使ったのではないだろうと想像する。
興行は十二日間昼夜二回、入場料は一等二円、二等一円三十銭、三等七十銭だった。今でいうなら二円は四千円くらいか。
こうして横浜市民は日本初のジャズ演奏に諸手を挙げて歓迎した。
後日談がある。JAZZプロの同僚中川明が天勝の伝記(石川雅章著)を買ってきた。帰朝公演はどうもおかしいぞ、横浜じゃあないらしいという。読んで二人で国会図書館に行き調べた。時事日報と報知新聞の大正14年の6月の新聞だ。それによると6月26日から30日の5日間で帝國劇場となっていた。残念、日本初は横浜ではなかったのだ。さらに6月19日には帝劇出演を前にラジオ放送にも出ていた。
その後、友人から天勝本人の伝記(魔術の女王一代記)、村松梢風の魔術の女王の帰朝公演のくだりのコピーをもらった。それによると帝劇も好評で10日間の延長とあるが、それじゃあ横浜の7月1日が開けない。どうも後から書くものには誇張がみえる。新聞は天勝にインタビューもしていたがジャズには一切触れず、劇評欄にも見当たらなかった。初めて耳にする奇妙奇天烈な音楽に、チンプンカンプンで書きようがなかったのではないか。
どうしても公演の評判が知りたい。日本大通の日本新聞博物館、新聞ライブラリーに行ってきた。そしてついに見つけた。横濱貿易新報大正14年7月8日の演劇欄にその記事はあった。(以下かな使いなど若干手をいれ書き出してみよう)
「魔奇術よりも寸劇とダンス 喜樂座」
天勝嬢という魔奇術の女王も一座十余名に嬌(きょう)艶(えん)をきそう娘子軍(ろうしぐん)をもっているということがなによりの武器である。いつもながら座外に溢れるばかりの観衆(けんぶつ)を吸収し魅惑している。
独創と名乗る天勝の魔奇術には流石(さすが)に立派な道具が用いられて大仕掛けではあるが、稍(やや)もすれば小手先(こてさき)の狂いが感付れるほどなのは如(いか)何(が)したものであろうか。往年の鮮やかさが薄れて行くのは惜しいものである。
夫(そ)れかあらぬか、この一座も奇術からダンスやオペラへと移り行き、今度などは欧米土産のスケッチ劇と、流行のジャズ・ダンスを主として奇術が従となっている。外人ぞろいのジャズ・バンドに娘子軍の惜しげもない全裸体に近い豊艶な曲線美の躍動するとき、観客(けんぶつ)は固唾(かたず)を呑んで見入っているのであった。寸劇と名づけた短いスケッチ劇は面白いものではあるが、余りに身もフタもない。出演者の台詞(せりふ)まわしというものには天勝始め工夫が欲しいものである。(梨)」
うーん、辛口の批評だ。だがよく読めば読者を煽っている文章でもある。音についての記述はないが“外人ぞろいのジャズ・バンド”とある。梨氏も耳よりも目がクギ付けになっていたのかもしれない。
この約一年後の大正15年8月18日からの10日間、ちょうど喜樂座の斜向かいにある「朝日座」(現横浜東映会館)に出演している。ここではダンス、音楽、魔術の他に支那剣劇一座新加入となっている。京劇だ、日本を巡っていてどこかで加えたのだろう。アメリカの人々は1年間の契約だからこの後日本を離れたと思う。