第六章 ジャズと横浜の現在

以上、序章と五つの項目を立てて「横浜JAZZ100年」を語ってきた。

2025年現在の横浜には15軒ほどのジャズ・クラブと10軒ほどのジャズ喫茶があり、1993年以来毎年公益財団法人横浜市芸術文化振興財団と一般社団法人横浜JAZZ協会が組織する実行委員会によって横濱ジャズプロムナードが開催されている。

このジャズ祭の特色は、集客が確実なアーティストや著名な米国アーティストの人気に頼ることなく、有能な日本人アーティストのステージを可能な限り多く制作し、都度の日本ジャズの実力を問うてきた点にある。

1993年の初回以来、2025年で30回ほどになるプロムナードは平成令和の日本ジャズの定点観測の場を提供してきたのである。「横浜JAZZ100年」のおよそ三分の一の時間の流れのなかで、日本のジャズがどのように変化したのか、また進化したのか。これを考える場を横浜は提供してきたといえるだろう。

穐吉敏子SPECIAL Trio、ランドマークホール、1993年
原信夫とシャープス&フラッツ、氷川丸、1998年
板橋文夫、関内ホール(大ホール)、2002年
外山喜雄 デキシー・セインツ&ニューオリンズ・バンド、ランドマークプラザ、2012年

米国出身で日本文学研究者でありジャズ研究者でもある早稲田大学名誉教授マイク・モラスキーは、日本のジャズ受容史を以下のように概観する。

「ジャズがもっとも注目を浴びた時代というのは、やはり、新たな生き方が求められるときや、人間と社会のあり方が根本的に問いなおされるときであったことが浮き彫りになる。すなわち、モダニズムとともに新たな価値体系が波紋をおこしたダンス・ホール時代(1920~30年代)、世の中のすべてが崩壊したと感じられた戦後初期(1940~50年代)、そして社会のあらゆる側面が問い直されるという激動期の1960~70年代初期。それぞれの時代に、それぞれのジャズが注目を集めたのであり、それぞれが日本のジャズの全盛期と見なされてきたのである」。

東京都内などで開かれる海外の大スターを招聘するやり方のジャズ祭では、モラスキーのいう「それぞれの時代の、それぞれのジャズが、それぞれに日本のジャズの全盛期を作った」ことを実証しえないだろう。

横濱ジャズプロムナードには概算で過去3000人ほどのプロのミュージシャンが出演している。それぞれ年齢性別もスタイルも異なるが、横浜のプロムナードのステージに立つというプライドをもって熱演名演を繰り広げてくれた人々である。そこに観測されるものは、この30年間の日本の社会を、ジャズという鏡を用いて照らし出してきた日本社会の変容にほかならない。

そしていま、100年前に日本で初めてジャズを受け入れた都市として、横浜は次の100年にむけて、日本のジャズの変化と進化を見守る意思を新たにしたところである。

鈴木勲  OMA ハイレゾ5、横浜赤レンガ倉庫1号館、2015年
Gentle Forest Jazz Band、KAAT神奈川芸術劇場、2015年
今田勝トリオ、BarBarBar、2017年
柴田浩一。長年にわたってジャズプロにかかわり、ディレクターを務めた。

小針俊郎

ジャズ評論家、プロデューサー。1948年横浜市生まれ。1970年開局の年に株式会社エフエム東京入社。主として番組編成・番組制作セクションに勤務。2007年退社。現在ジャズのイベント制作、CD制作、ラジオ番組制作、新聞、雑誌等へのジャズ関連の記事の執筆を行う。一般社団法人横浜ジャズ協会副理事長、一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長を務めている。

参考文献

文中に引用元を記した資料の他、本稿執筆には下記の文献を参考資料として使用した。

  • ニュー・ジャズ・スタディー -ジャズ研究の新たな領域へ-
    マイク・モラスキー他編著 アルテスパブリッシング
  • 横浜ジャズ物語「ちぐさ」の50年 吉田衛著 瀬川昌久編 神奈川新聞社
  • 日本のジャズ史戦前戦後 内田晃一著 スイングジャーナル社
  • 近代日本の音楽百年 黒船から終戦まで 第4巻 ジャズの時代
    細川周平著 岩波書店 
  • 至高の日本ジャズ全史 相倉久人著 集英社新書
  • ニッポン・スウィングタイム 毛利眞人著 講談社
  • 戦後日本ジャズ史 平岡正明著 アディン書房
  • ジャズ昭和史 油井正一著 行方均編 DU BOOKS
  • 戦後日本のジャズ文化 マイク・モラスキー著 岩波書店
  • 序章に記した、二谷尋常高等小学校などで訓導を務めた三浦俊三郎は『本邦洋楽変遷史』(昭和6年)で横浜市歌を取り上げ、「行進曲風に出来て居て、歌謡風でない處が歌ひ手を困らせてゐる。」としつつも、「今日に至るまで全市児童並に青年の集会記念式等に歌はれ市歌としての眞價を發揮して居る。」と紹介し、「自分は永久にこの市歌の存続を希ふものである。」と述べています。