酒とギャンブルと女は男の甲斐性という人もいるが、ほどほどにしないと体を壊す、借金地獄に陥る、ストーカー扱いされるで、いいことはない。しかしシナトラは人生の達人、酒にも賭博にも女性にもめっぽう強かった。
まずはお酒だが、シナトラの大好物がテネシー・ウィスキーのジャック・ダニエルズだったことはよく知られている。がぶ飲みをして前後不覚になることはあまりなかったようだが、一度ジョン・ウェインに毒づいて一撃を喰らったことがあったとか。1991年のワールド・ツアーではスコッチ・ウィスキーのシーバス・リーガルがスポンサーにつき、シナトラはステージでグラスを持って「カンパイ!」とやっていたが、中身は紅茶だったはずだ。そういえば、シナトラの相棒ディーン・マーティンには酔っ払いのイメージが定着しているが、酒にはそれほど強くなかったし、ステージでは素面だった。つまりアカデミー級の演技だったわけだ。
シナトラが歌ったお酒関連の歌といえばまず「酒とバラの日々」。もとはバラードだがジャジーにダンディーにスウィングしている。「酒は涙か溜息か」的の歌では、ダイナ・ワシントンも歌っている「ドリンキング・アゲイン」がペイソスあふれる名唱だ。 ギャンブルといえばヴェガス、ヴェガスといえばシナトラ。シナトラがシーザース・パレスに出演しているときは、ホテル前の大看板には “He’s Here” とあるだけ。1950年代から60年代にかけてラスヴェガスの根城はサンズ(今はもうない)だったが、あるとき天井知らずの賭けに出て、ホテルから「クレジットいっぱいだ」といわれてひと悶着起こし、シナトラはサンズを去ってシーザースに移った。
ギャンブルの歌といえばきわめつけは「ラック・ビー・ア・レイディ」。ニューヨークを舞台にマーロン・ブランドやシナトラらギャンブラーたちが蠢くミュージカル『野郎どもと女たち』のハイライト・ナンバーで、映画では歌の素人ブランドが吹き替えなしで歌った。シナトラはそのことをしばしばステージで揶揄していたが、事実この歌はシナトラの独壇場で、ダイスをふるしぐさを交えた歌は天下一品だった。
最後に女性だが、常にゴシップ欄を賑やかしていたシナトラが婚約まで行ったのはハンフリー・ボガートの未亡人ローレン・バコールと南アフリカ出身のダンサーのジュリエット・プラウズ。結婚は4回で、最初のナンシー・バーベイトは幼なじみのイタリア系の賢母タイプ。二人目が大スキャンダルを押し切って結ばれた妖艶のハリウッド女優エヴァ・ガードナー。三人目はエヴァとはまったく逆のスレンダーでボーイッシュなミア・ファーロー。彼女とは30歳離れていた。4人目そして最後がマルクス兄弟の末弟ゼッポと離婚していたバーバラ・マルクスで、彼女はあまり売れないショウガールだった。シナトラが歌った女性の名前のついた歌で、まず思い浮かぶのが「ナンシー」だ。1940年に生まれた長女ナンシーを歌ったナンバーで、1981年レーガン大統領の第一期目の就任前夜祭では歌詞を変えてナンシー大統領夫人に捧げた。バーバラ夫人を歌った「バーバラ」という曲もあるが、残念ながら歌そのものの出来があまりよろしくない。
蛇足ながら、シナトラがエヴァと結婚したのは1951年11月7日、ミアとは1966年7月19日、バーバラとは1976年7月11日。カードの世界で7と11はラッキー・ナンバーである。シナトラも大安を選んだということか。
今年も又、板橋文夫オーケストラの背景でライブ・ペインティングをさせて頂くことになった。
甘露至極である。
何しろ、すぐうしろでかの面々が、狂気にのって演奏しておられる。そこへするすると出て行って、僕の勝手な絵を描いていいのだ。横十メートルたて六メートル。
さあお好きな絵を描いて下さい。但し時間制限が一応あって、演奏より長びいてはいけません。
布は僕が準備する。近所の山の女の子に頼んで縫ってもらった。でかいから大変だ。僕がぶらぶらしている間に、2人がかりでやってくれた。
それを幕間に裏方の皆さんと僕らの仲間でアッという間に舞台後方に張る。
いよいよ始まると、白い美しい大布の前に、御存知板橋オーケストラの面々が集いはじめ、グワッと大音響で始まる。 よだれが垂れるようなよろこびの始まりである。お客さんもそうだろう。
しばらくそれを聞いて楽しむ。楽しくなって来たところで、僕も舞台へ出て行く。長い棒の先にハケをくくりつけたのと、 絵具をたっぷり入れたバケツを持って。せっかくの演奏の最中、へんな男がそうやって登場するのを見て、お客さんは何を思うんだろう?
しかし、知ったことではない。僕も同じく演奏するのである。音符もよめず楽器も使えぬ僕が、しかし心だけは面々の音楽にのって、僕の演奏、すなわち絵を描くのだ。
背後に鳴っている狂気の沙汰が、どんなにか僕にインスピレーションをくれることか!信じられないほどだ。申し訳ない。僕は何も考えず、 何の準備もなく、白紙で山から下りてくる。真っ白だ。僕が描くのは、あるがまま、聞いたまま、感じたままだ。
ヘンな絵が出来ても、僕のせいじゃない。オーケストラのせいだ。ヘンな絵?!そんなものがこの世にあるのか?
僕は、この大画面に実にたのしく絵を描く。サンキューベリマッチだ!
ここで仕上る絵は、いつもすばらしい。自画自賛ではない。これがすばらしい責任は、いつも背後の、板橋オーケストラにあるからなのだ。サンキューベリマッチ!
さて、去る7月9日に、平岡正明さんが急逝された。毎年ヨコハマで会えるのを楽しみにしていたのに。テンポの良い彼の語り口に笑っている間に、 お互いが根津の生まれで、同じ駄菓子屋の常連であったと判明したのだった。もちろん彼の方が十才ほど僕より年上である。 ・・・残念だ。 合掌。
列車が通過するたびに
ぼくは南に行きたくなる・・・
ホームシックのブルースだ
誰かぼくに教えてくれ
自由列車のことを・・・
(ラングストン・ヒューズの詩句断片)
先日、家内と一緒に横浜のジャズ・シーンをしのぶツアーに参加した。
20人が2組に分かれて、桜木町から野毛、日ノ出町、長者町、伊勢佐木町、関内へと歩き、最後に赤レンガ倉庫でディナーという行程だった。
ディナーの席では、横浜JAZZ協会・柴田浩一さんの講演があった。
新宿や渋谷でジャズを聴いていた1960年代初め、横浜には<ちぐさ>というジャズ喫茶があることを聞いていたが、何となく行きそびれた。
それから40年余りの時が過ぎ、ある日、新聞で<ちぐさ>の閉店を知った。
ジャズならどこへでも聴きに行くというほどには熱心でなかった上に、暮らしの中でいつの間にか疎遠になっていたので、その記事を見るまでは<ちぐさ>という店のこと、ただの一度も思い出すことはなかった。
それなのに、この記事を見た瞬間、なぜか「しまった!」と思ったのだ。
新聞には「ジャズ界を支えた73年」とあった。
歴史の現場が失われてから、その貴重さを知る「後の祭り」の無念さなのか、行きそびれたままにした悔いなのか、名状しがたい感情が去来した。
<ちぐさ>跡をたずねると、そこはマンションになっていた。
「当時の面影、偲びようもありませんが、ほらここに、ビルの好意でメモリアル・プレートが残されたんです」とボランティアガイドの女性が言った。
指さされた足元を見れば、この場所に1933年、店を開いた吉田衛(まもる)さんという人の中折れ帽をかぶった横顔のスケッチと、ラッパの看板がめだつファサード全景が、それぞれタイルに写されて嵌めこまれてあった。
「戦時中、ジャズは<敵性音楽>だというのでレコードを国に没収されるんですが、3分の2はうまく隠し通して貴重な盤をまもったそうですよ。それもしかし、1945年5月の横浜大空襲で全焼してしまったそうです」という説明を聞きながら、この間観たばかりの井上ひさしの芝居『きらめく星座』の舞台を思い出していた。
この芝居の人物も、<敵性音楽>が大好きというレコード店主なのだ。この店主一家とそこに間借りする人たちの暮らしが、戦時体制への抵抗として、笑いの中に描き出されていたからである。
そしてまた、1941年12月7日(太平洋戦争開戦前日)で幕を閉じたこの芝居に、<ちぐさ>全焼の姿がつながって見えてきたのだった。
戦後、米兵向けのディスクを集めて<ちぐさ>は再開した。当時、吉田衛さんを知る人は「ジャズの頑固親父」と言ったそうだ。
2007年1月、時代の波か、この店も幕を閉じた。
伊勢佐木町の、何の変哲もない雑居ビルの入口で1952(昭和27)年頃の写真を見せてもらいながら説明をうけた。占領下の伊勢佐木町風景だ。
当時米軍に接収されてクラブになっていた不二家ビルの前に、ネクタイを締めたスーツ姿の黒人が立っていて、その脇にモンペ姿であねさんかぶりのおばあちゃんが二人、笑顔でたたずんでいるスナップ写真は、特に印象に残った。
「あら、私の生まれた頃だわ」と言った人がいた。
「そうか・・・私は中3だったな」と思った。ヘルシンキ・オリンピックやメーデー事件で記憶されている年だ・・・あの頃がちょっとよみがえる。
「ここが有名な<モカンボ>があった所です」と言い、「ここで天才ジャズピアニスト守安(もりやす)祥太郎が演奏して、渡辺貞夫や穐吉(あきよし)敏子など、その後の日本のプレーヤーに多大な影響を与えたのです」とガイドさんは説明に熱を入れた。
<モカンボ>も<守安>も初めて聞く名前だった。
有名といわれながら、一般にあまり知られていないのは、こちらがジャズ界の歴史に詳しくないということもあるのだろうが、この頃のジャズが、占領下の特殊な条件のもとに置かれていたからではないかと思った。
戦後、日本のミュージシャンたちが仕事を求めて、治外法権的な進駐軍のクラブで演奏していたという環境の中にジャズは閉じられ、演奏家仲間では有名なことも、外には出てこなかったからではないかと考えてみた。
そしてまた、1950年代の半ばに大学生活を送った世代には、基地と結びついたジャズへの屈折した感情があった。とりわけ56年10月、小雨降る砂川でクラスメイトと基地拡張反対のスクラムを組んだ私にとって、ジャズはコカコーラとともに、わが五感と衝突した。
そうした心情に覆われていたその頃の私には、後に日本ジャズ史で特筆されるようなシーンや話題も、だから、きっと素直には届かなかったのだろう。
それが1960年、日本の針路をめぐって街頭に出る中で、私は詩を書く友人から黒人文学を教えられ、それを媒介に、開放思想の表現としてのジャズを知った。そして、ジャズには、哀しく憂鬱なメロディーでさえ、人をそのまま暗く沈みこませない命のリズムがあるのも知ったのだった。
即興のユーモアが人と人とのつながりや自由への意志をひきだすのも感じた。
目を開かれ、共感した。
ジャズに心を開いた時、ヨーロッパからもジャズと映画の「新しい波」が上陸して来た。時代はモダンジャズ(ビーバップ)を求めていた。
そのビーバップを、すでに守安は54年の時点で演奏していたのだ。
柴田浩一さんの話は、音でつづりながらの横浜ジャズ史であった。
その中には、戦前(1925年)に、伊勢佐木町の<喜楽座>という芝居小屋で演奏されたという、アメリカから招いた7人編成のジャズバンドの音を復元して聴かせるという、珍しい試みもあった。
他にも魅力のある録音を聴かせてもらったが、話をしぼる。
圧巻は、今回のツアーで知った守安祥太郎というピアニストの唯一残された<モカンボ>での録音を聴かせてもらったことだった。
文句なく凄いと思った。
その音は、流星が空気の層に突入してくるときのように激しく燃えていた。
それでいて精緻なジャズなのだ。私は緊張し、気合が入った。
アメリカでさえまだビーバップが充分に耕されていない時期に、こんなにも複雑なコード進行や和音を、このスピードで演奏できたことは驚きだった。
同時に、こんな天才がわずか33歳の若さで亡くなってしまったこと、実に残念なことだと、しみじみ思った。
テーブル席がたまたま柴田さんの隣だったので、ちょっとした事をたずねたり、感想を言ったりすることができた。
「この時、守安はいくつだったんですか?」「30歳です」
「このテナーは誰ですか?」「宮沢昭です」
「いいですね」「守安が徹底的に鍛えたようですよ」
そんな会話もした。
いい一日だった。
食事にも満足して、赤レンガ倉庫を出ながら「秋にはまた<横濱JAZZプロムナード>に来ようよ」と妻に言った。
昭和八年(1933)から開業した、世界にも類のない“ジャズ音楽鑑賞喫茶店”野毛の「ちぐさ」につきましては、店主・吉田 衛著『横浜ジャズ物語 /「ちぐさ」の50年』を読まれた方も多いと思いますが、オヤジさん(店主)の戦後のジャズ・レコード入手の苦心は、並大抵ではなかったことがよく判ります。空襲で焼失してしまったSPレコードを、再び集めることから店を復活させ、ついに1950年代初めには米国マイナー・レーベルからリリースされたLPレコードを積極的に購入したことにより、多数のミュージシャン、ジャズ・ファンが来店し、リアルタイムでモダーン・ジャズに聴き入っていました。
注)1948年に米コロムビアは33 1/3回転LPレコードを発表・生産を開始。
翌49年にアンペックス社がテープ・レコーダーを開発。
ご承知のように、アメリカでは1942年8月1日よりAFM(American Federation of Musicians):アメリ カ音楽家連合会(俗に略称で「ユニオン」と言う)は、1944年11月までの27ヶ月間のレコーディング・ス トライキを行い、その時期から1950年代中期に掛けて多数のマイナー・レーベル(Roost, Continental, Savoy, Specialty, Dial, Atlantic, Regent, Discovery, Inperial, Contemporary, Prestige, Fantasy, Pacific Jazz, Norgran, Bethlehemなど)が続々と誕生した。
さて、掲題のMr. Mitsuo Miyashiro(ホノルル在住の日系アメリカ人)は、10代の頃からからSPレコードでスウィング・ジャズを聴き始め、ギターも先生についてレッスンを受けていましたが、ある日ビリー・バウアーの演奏を聴いてその奏法に魅せられ、モダーン・ギタリストを聴きあさったそうです。朝鮮戦争(1950年6月)の兵士として51年に初めて来日後一旦帰国し、学校卒業後の53年に再び軍属として来日。横浜税関近くのオフィスで仕事をしていましたが、現在のMM21内にあった米軍専用ホテル(U.S. Forces Mitsubishi Hotel Yokohama Japan)内のクラブに“ウエスト・ライナーズ”や“山屋 清のFne & Dandies”などのジャズ・バンドが週二回出演していたのでそれらを毎回聴きに行っていたようです。さらに東京にも足を伸ばし多くのミュージシャンと友達になりました。野毛の「ちぐさ」にも友人と通い、日本語が達者だったのでオヤジさんともすぐ親しくなったそうです。初めて「ちぐさ」に入った時、オヤジさんがオシャベリをはじめた客に「静かにして!」と注意したことは、「今でもハッキリ憶えている」といいます。
Mr. Mitsuo Miyashiroは、“Miyaさん”の愛称で呼ばれるようになり、彼の目に珍しく映った“ジャズ喫茶”が新譜レコード入手で苦労していることを知り、本国の西海岸やカンサスの友人を通じて最新ジャズ・レコード情報を「ちぐさ」に紹介し、選ばれたレコードを本国から取り寄せ国内のどこの店よりも早く客に聞かせていました。オヤジさんはこれが自慢の一つで、客に問われても「企業秘密だ!」と言っていたとか・・・。Miyaさんは自分が世話をしていたことなど、口にしたことはありませんでした。「ちぐさ」閉店の報を電話で話したとき、何とも寂しそうな声で「残念だネ・・・」と。小生以上に詳しい経緯をご存知の方も当然いらっしゃると思いますが、我々昭和10年前後世代のファンが、戦後の焦土から立ち上がり、リアルタイムでモダーン・ジャズを聴けるようになったのも、横浜にMiyaさんという隠れた功労者がいらしたことを知っていただきたいと筆を執った次第です。
尚、Miyaさんは〝Yokohama Jazz Promenade” には毎年来てくださって、ミュージシャンと旧交を温めることを楽しみにしております。しかし、今年は体調に不安があるため「無理をしないように」と伝えながら、フライヤーを拡大コピーし出演者名をローマ字で書き込み送りましたところ、「スバラシイ企画で、聴きたいグループ、会いたいミュージシャンがたくさん出演するので、是非行きたい!」との電話があり、目下、双方で会場巡りの調整を始めているところであります。
Miyaさんとの“縁結び?”をしてくださった「ちぐさ」のオヤジさんは、こんな様子をニコニコして見てくれているのでは・・・。
女だてらに、と言う言い方はアメリカでは差別用語として禁句であるが、近頃のジャズシーンでの女性の活躍振り、特に日本においてはピアノとアルトサックスの分野では女だてらにどころか男性を凌いでの実力と活躍振りである。
アメリカでは、キャンディ・ダルファー、イギリスではバーバラ・トンプソンと、いずれも美形のサックス奏者が人気となっているところをみるとやはり、‘だてらに’という見方はあちらの国にもあてはまるようで、ジャズプレイヤーとしての本物の評価とは別物の感がしないでもない。さて、女性のジャズ奏者としてのパイオニアは、キング・オリバー楽団のピアニストであのルイ・アームストロングを、世界の桧舞台に送り出すきっかけを作ったリル・ハーディンである。彼女はやがてルイの二度目の夫人となった。1923年頃のシカゴでのことである。以来、多くの女性ピアニストがジャズシーンに登場するきっかけとなったのだが、ブラスやリード奏者たちについてはどうであったのであろうか。
実は、1920年代の半ば頃から50年代にかけては全女性のジャズバンドが隆盛を極めた時代であった。シカゴやハリウッド、そしてニューヨークの高級ホテルが競って女性のフルバンドを雇い、ディナーショーやダンスショーに艶やかさ添えて宿泊客の獲得に利用したからだ。全国から、また世界中からの観光客を夜な夜な楽しませるには、黒人のビックバンドよりは美形で美脚揃いの楽団を雇ったほうが効果があるという訳だ。有能で美しい女性ミュージシャンを集めるためにホテルの担当者は全国を巡ってオーディションをしたと言う時代であった。ただ、殆どのバンドはコマーシャルでコミックやセクシーを売り物とするものであった。この辺りの様子は現在では沢山の当時のフィルムがVideoやDVDになって発売されているので見られた方もおられると思います。それらの画像で見られる美女バンドには譜面台を置いていないことにご注目を。美脚を隠すことはないと言うわけだ。しかし彼女らの中には、体力と奏法の点でのハンディキャップを乗り越え男性奏者には一歩も引けをとらないばかりかジャズ史に残る巨人の域に達した名手達もいた。
この稿では、ジャズ創生期からの偉大な女性トランペット奏者について述べてみたいと思います。まずは、Dyer Jonesである。なんと彼女はルイ・アームストロングが世に知られる以前の、1920年代の初めに既にシカゴで演奏していたトランペッターであった。(ルイは1920年にはまだニューオリンズにいた)20年代の名ドラマーとして知られているトミー・ベンフォードの言によると、当時、彼女はただ一人の黒人女性トランペッターでダンスバンドでリードも吹いていて、男性も羨むほどのハイノートヒッターでもあったという。1929年にはニューヨークのブロードウェイにあったアルカディア・ボールルームに常時出場していたサミー・スチュアート楽団に所属していてサミーはよく彼女をフィーチャーしていたと、当時の同僚であったアイク・ロビンソンの証言もある。そして、その時にいつも彼女にまとわりついていた少女がいた。この少女はやがて母(Dyer)と同じくトランペットを手にして30年代には母を凌いで‘女ルイ・アームストロング’と言われるようになったDolly Jonesである。母に奏法の基本を学んだあと、徹底的にルイの奏法を研究してリル・ハーディンが作ったオール・アメリカン全女性バンドに迎えられてスター・ソロイストになったのだ。キング・オリバーのレガートと、ルイの強力なアタックを適度に調和させたような演奏はTbのアル・ワインと共演したレコードでも聴ける。日本では63年頃に「ジャズ・オデッセイ シカゴ編」の中に収録されており油井正一氏が初めて紹介していたが、女性と聴いてビックリしたものである。母親よりも次の世代なので、より身近な偉大なトランペッターの証言がある。ドク・チーサムは「ルイの奏法の全てを熟知していて完璧にこなしていたね。トランペットは彼女の全てで寝るときも食事の合間でも常にラッパを離さなかった。とても上手かったので、誰でもDollyのラッパを聞きたがっていたものさ。」ロイ・エルドリッジも「当時、私はフレッチャー・ヘンダーソン楽団に所属していたのだが、バンドの仲間はいつもDollyの噂をしていたものさ。バンドの仕事が終えてから、一緒に朝方の3時ころまでジャムセッションをしたこともあるけれども、ぼくの強いアタックやビートは彼女からの影響さ。黒人女性のステータスがあの頃にあったとしたら、必ず大スターになっていたプレイヤーだと思うよ」と言っている。Dollyは、1937年に作られた映画(SWING)の中でDoli Armena Jonesの名で出演して力強い奏法で「China Boy 」と「I May be Wrong」を演奏しているというが小生は未見である。
もう一人、初期のトランペッターで忘れられない人がいる。“トランペットの女王”といわれた黒人プレイヤーでその名はValaida Snowという。スノーも母親からトランペットを習った。姉二人も歌手だったといのだから音楽一家だったのだろう。1924年にはニューヨークのブロードウェイで黒人女性のスターだったエセル・ウォーターのショー(Rhapsody in Black)のバンドでデビューをしている。スノーが他の女性トランペッターと違うのは、ラッパの他にダンサーでもあり歌手でもありピアニストでもありそしてヴァイオリニストという多才ぶりだ。この多才ぶりを買われてか、1926年から世界中のホテルでのショーに出演してあるいた。なんと1928年にはインド、上海を経由して東京でも公演したという。1934年にはロンドンを訪れたが、このときは丁度ルイ・アームストロングが初めて訪れた後だったのでスノーのルイ顔負けの演奏はセンセーションを巻き起こし、著名なジャズ批評家のブライアン・ラストは興奮のあまりスノーに「トランペットの女王」の称号を送った程だった。事実、アメリカではレコーディグの機会がなかったスノーだったが、イギリスでは1935年から37年にかけて16枚(Perophone)もの、そして39年から40年にかけてはコペンハーゲンとストックホルムでのレコーデングと多くのコンサートに出演している。
今では原盤(SP)の入手は困難ではあるが、下のLPやCDで彼女の軌跡をたどることができる。
Harlem Comes to London.? DRG Records SW 8444 Swing, 1929-38?
Hot Snow: Valaida Snow, Queen of the Trumpet, Sings and Swings. Rosetta Records RR 1305, 1937-50
My Heart Belongs to Daddy.? Sonora 3557, 1939
Valaida: High Hat, Trumpet and Rhythm.?? World EMI SH 309
アメリカでは差別からか冷遇されたスノーだったが、ヨーロッパでは大変な人気であった。しかし戦争が激しくなった1943年に帰国して終戦まで慰問などの仕事を続け、56年にニューヨークで他界した。30年代のカンサス・シティといえば、カウント・ベイシーやレスター・ヤング、ベン・ウエブスターなどが活躍して街中にジャズの熱気が満ち溢れていた頃だ。このころにも男性顔負けの黒人女性トランペッターがいた。Tiny Davis(1907-1956)だ。本名はErnestineというのだがデブチンの大女だったのでその逆のチビ(Tiny)という渾名をオール女性バンドのリーダーだったAnna Mae Wilburnによって付けられていた。デービスには5人の女姉妹と2人の男兄弟がいたが、前記の二人と違って彼女の家族の誰も音楽には関心がなかったようだ。高校のころに町にやってきた34人編成の楽団に、ただ一人トランペットを吹いている女性のかっこ良さに憧れて家に帰るなり母にトランペットを買ってくれるように頼んだのがきっかけという。当時レコードで人気のあったマ・レイニーやマミー・スミスなどのブルース歌手には関心を示さずカンサス・シティのナイトクラブを出発点にトランペットを吹くことに夢中になったという。そのころのカンサス・シティには,女性の腕利きのジャズピアニスト例えばメリー・ルー・ウイリアムスやジュリア・リー、マーガレット・ジョンソン等がいたのでジャムセッションの相手にはこと欠くことはなかった。「私のアイドルは勿論ルイ・アームストロング。高校の頃から徹底的にルイの奏法を研究してルイにそっくりに吹いたものよ。特にマック・ザ・ナイフなんて寸部も違わないように吹くことができたのよ。」と、デービスは語っている。彼女は黒人女性だけのバンド(Harlem Playgirls)も結成したが1939年にはカンサス地域で活動していた黒人男性バンド・リーダーのジェシー・ストーン楽団に雇われてなんと10年も在籍していた。ストーンは彼女のトランペットをフィーチャーして「ハーレム・ノクターン」や「言い出しかねて」を並み居る男性トランペッターを差し置いて演奏したという。実力のほどが知れようというものだ。戦後はツアーを停止したがその理由はまだ差別が残っていた時代に楽旅を続けることに疲れ果てたためだという。ニューヨークに帰ってきてからは、アポロ劇場や42番街のジャズストリートで’Hell Diver’という6人編成の黒人女性バンドを率いて活動していた。
さて時代は少し下って40年代になると、優秀な白人女性トランペッターが登場してくる。Estella Slavinだ。彼女に付けられたTag Line(呼び名)は「女性ハリー・ジェームス」だ。スラビン自身は黒人のロイ・エルドリッジがアイドルだったという。彼女も若い頃にミュージシャンだった父にトランペットの手ほどきをうけている。艶かしいセクシーな指揮で有名だった金髪リーダーのIna Ray Hutton楽団の、三人のトランペットセクションの中の左端の小柄な美人がスラビンである。40年代には自分のバンドも率いていたがハットンのバンドに引き抜かれた。当時の人気黒人バンドのジミー・ランスフォード楽団が最も好きだったというから、ランスフォードのアレンジをよく使ったレイ・ハットンのバンドでの演奏には満足しただろう。スラビン自身は50年代の後半まで吹いていたが、スラビン曰く「女性バンドの維持は、スタープレイヤーが結婚などや地方への楽旅の辛さと体調の維持ができなくて辞めていくので難しいのよ」と語っている。「でも、私自身でも信じられないのだけれども綺麗なバラードを吹いたり、Bopを演奏することも好きなのよ」そのスラビンも、さすがに60年代に入るとラッパを置いてインテリア・デザイナーとして新たな道を選んだ。残されているIna Ray Hutton楽団の映像に若きスラビンの勇姿を見ることはできるが、時代が変わり、音楽も聴衆の要求も彼女たちの音楽を必要としなくなってきたのもラッパを置いた理由であろう。
私はオランダ大使館の文化部なんて変なところで、オランダ文化の日本への啓蒙というのが仕事で36年もいさせてもらった。金もない、場所もないところだけど、何かオランダの文化を紹介するような活動をしていれば、首になって路頭に迷うこともなかった。
本来はビジュアルアート、展覧会やアーティストインレジデンスなどがメインでしたね。だって音楽や舞台は招聘のライセンスがいるし、企画して招聘元へ振っても、招聘元だけでは規模が小さいから、ビッグネームしかやりたがらないからね。
ところがあるときオランダのジャズを紹介する財団からもっと日本で継続的に啓蒙活動をしたいという話が舞い込んできた。ならその彼も知っている現代音楽のプロモーションをやっている財団も一緒にしてやろうよ、それには横浜しかないでしょうということになった。横浜は日本第二の都市だし、ジャズの発祥の地だし、メディアのアクセスも容易だし、箱も、人材もあるし。
それにこれは彼には伝えなかったけど、私としては、そのときいろいろの仕事を一緒にやっていた外務省外郭法人の会長がジャズに詳しい、横浜にもコネがあるということで、彼を引きずり込めば、私は楽チンですむなんて考えがちょっとばかり頭をよぎったりして。
(大使館は定年退職。その後この法人に「天下り」。何? いけない? なにが?
ここは役員は無報酬、もちろん退職金もない。理想的な公益法人なのです。世の中の公益法人がここを見習えばもう少しはいろんなことがよくなるかななんて負け惜しみが口をつくけど)
クラッシックの財団はそれまでにあちこちで日本の企画にからんでいた。それにはもちろん横浜も入っていた。いろんなところが単発的にやるよりも、ある地域、期間を決めて、そこにいろんなジャンルの活動を入れ込んだほうが相乗効果がでてコストパーフォーマンスは絶対にいい。
それにダンスでも横浜に絡んでいる人が私のまわりにいるし、その間、美術もやりたい、しばらく間があいている映画祭も、またここを起点にできるかな。
夢は膨らんできて、頭の中一杯になったときに横浜市文化振興財団(JAZZプロムナード実行委員会事務局)へ電話を入れた。
その後いろいろあって、横浜の弱みを掴んだ私は、「お願いしますよ」の泣き落としから、「ねばならない」へと変わっていき… 翌年から、今年まで横浜にはずっといろいろのグループを入れてもらっている。
オランダにもプロモーションなら間を空けちゃいけないよ、って脅しをかけているから、もう少しは続いていくだろうと思う。
オランダの財団としては、これから発展していく若いグループを呼んでもらいたいのは判るけど、こちらの要望もどんどん言いまくってきた。財団がこれほどフレキシブルにこちらの希望を受け入れてくれるとは思いもしなかったけど、担当者は大変だったろうと思う。
それにしても、横浜のJAZZプロムナード実行委員会、そしてS氏には感謝の言葉以外にない。よく我慢してくれているな~って、ほんと心の底から思っているんですからね。
横浜のいいところ。それはボランティアグループに表される市民の活力ということに集約されるのじゃないかな。これが東京じゃこうはいかない。変なかっこつけしばっかりだもんね。だから横浜で仕事するととても気持ちがいい。
それに2年前から横浜市民になったし、
ただ白状すると、僕は野毛だの、中華街だのって嫌いだし、恐いんだ。
それに僕は本来美術、音楽ならクラッシックという端正な性格だから、ジャズも嫌いだし、恐い。
もう一つは優しい、美しい女性は嫌いだし、恐い。
もちろんお金も恐いのは何度も言っているよね。
この場をお借りして、無駄とは思うけど、天狗さんにメッセージを送ります。
もうしばらく横浜に関わっていたい。この国際的な港町の雰囲気と、たそがれて街角を廻ったらふわっと聞こえてくるペットの音、ピアノの響き、、、なんかぞっとする。いや風邪のせいではなくって、ほんと。
それにしても、聞いた話だと、横浜にはレコードやその他の資料もずいぶんと残っていて、それが散逸しそうな危険があるとのこと。
横浜ってジャズの発祥の地じゃない。それに横濱ジャズプロムナードを見ていても、たくさんのボランティアが協力しているし、楽しみに聞きに来ている人たちもそれ以上いる。これだけの財産を放置するなんてもったいない。
演奏家を盛り上げるのも一つの大事な仕事。これはジャズプロムナードがしっかりとやっているよね。でもそれ以外にも、横浜のジャズ文化を保存する博物館(資料館)的なものが欲しいなって思うのだけど。それにもしそこで若手や著名なプレイヤーの演奏が聞けるようなスペースがあればもっとすばらしいと思う。
こんなことができそうなのは横浜だけだし、横浜はその一番いい歴史や現在の環境をもっている場所だと思うのだけど。
いろんな自治体と文化遺産の保全にからんでいたんだけど、そこでいつも言っていたのが自分だけが持っている文化はもっと大切にしないと失われたら戻らないよってこと。自分の誇れるものを、あまりにも身近にありすぎてその価値に気がつかなくって、簡単に捨ててしまうことがままあるんだよね。横浜にはそうなって欲しくないな~
怒涛の如くに押し寄せた洋楽の洪水の洗礼を受けた60年代、ラジオ傾聴が最大の娯楽でもあった世代でもあります。自分の感性に一番周波数が同調できたと言うべきか振り返れば華やかなりしアメリカ音楽の媚薬効果にすっかり参ってしまった。電源点せば豪華絢爛でゴージャスな楽団のジャジィーな匂いに誘われ大ハマり。スィングビートがたまらない!時に心地よく、時にワイルドでスピーディなドライブ感に酔えるのでありました。
今や永遠の師匠となってしまったBuddyRich,はじめシナトラ、ベイシー、そしてT.ベネット、往時も一流と歌われたトップスターを追い求め続けて彼らのコンプリートを目指したのが命取りのジャズまみれに突入。止め処ない獲物漁りのドロ沼に突き進んだのはご想像に違わず、問答無用の果てしなきハンティングワールドへ!。
間口はデカく、役者も多い奥深きジャズの樹海に迷いつつも道標にディスコグラフが必然の巡り逢いで、遂には自らも共著本の為にデータ魔として仲間入りまで果たしてしまった。
お蔭様でディスコ本はリッチ御大はもとより、ハンコック、トレーン、ハンク・ジョーンズそして知る人ぞ知るフランク・ロソリーノ等には共著協力に名を連ねさせて戴きました。
大好物のベイシーがいけなかったのか、4拍子の心地良いドラミングがいけなかったのか爾来約40年の長きに渡って“聴き漁り、買い漁り”、気が付けばJazzまみれ。
ベイシー翁が居なけりゃ、リッチ様にもシナトラ~ベネットまでにも拡がらなかったのでは?と改めて<BasieSwing>その功罪と運命の出会いに感謝、感謝。
元来の偏執的収集癖のおかげで”トリビアの泉”ならぬ百科辞典的なゴミ知識までに研鑽を究めて悦に入っている所以。早い話が何でもゴザレのごった煮収集の産物が自慢であり、悩みのネタにまでアメーバー的大分裂の現状なのです。
万枚を越えたアナログ、7千種のCD、オーディオやビデオ映像は数千時間の蓄積、はた又書籍や写真集までのジャズ関連資料はもはや自己の記憶収納すらオーバーキャパ。
他人様には粗大ゴミの山、しかも産廃扱いのビニール系の塊との悪態をつかれるザマと化し、居住空間を圧迫せしめる生活危機。こんな情熱と労苦が染み込んだ半生の集積物に、興味もそそらぬ衆人からは呆れた驚嘆と冷ややかな視線,を送られているのみのマニア道。
営業出張の傍ら、北海道を除きほぼ全国制覇のジャズハント旅で怨念の詰まった集積物を目の前にして“死ぬまでに整然整理!!”を目指し獲物の吟味と安らぎの視聴に向け淡い夢見。然しながら、これまで契機を逃してきた最後の聖地ヨコハマのRec.ハンとJzスポット行脚にむけて今度こそ横濱ジャズプロムナード時期には襲撃をかけて見たい、、、と。
JAZZと言うことを聞いて、最初、新橋の人たちは拒否反応をおこしました。
“新橋”は、演歌の似合う街だよ、と言われたのが、2002年のことでした。
Jazz in Tokyoは、港区内の企業や有志が中心になり、地域貢献型の運動として出発しました。
地域主催の祭事や区のイベントなどにJAZZを提供して来ました。
当初、ニューオリンズからJAZZのミュージシャンを単独で招聘し、皆さんに提供したりしました。
それから、JTアートホール アフィニス(虎ノ門)を中心にしたJAZZライブを定期的に開催しました。
こちらは、日本の新進気鋭のJAZZアーティストを中心に展開しました。
TKYやakiko、Fried Prideの他、ムッシュかまやつ、阿川泰子、宮本信子、伊藤君子、エリック・ミヤシロなどと言った人たちをお呼びしたりしています。
その他、港区内の在外公館とも連携し、特にオランダやオーストラリア大使館の後援で昨年は、Peter BeetsトリオFiddlers Festivalを招聘したりもしています。
その他、港区在住の方々を中心に年10回の“みなとジャズ講座”を開催し、その発表会を、武蔵野市や大田区などのアマチュアバンドの方たちの他、区内の小学校のジャズバンドと共に演奏発表会を行っています。
又、区内の小中学校でJAZZの体験学習を毎年行っています。
今、新橋の飲食店のBGMは、JAZZが多くなっています。
ここ数年のJAZZブームを肌で感じるようになりました。
今年の7月26日には、JR新橋駅前で開催される“新橋こいち祭”で、アマチュアのバンドコンテストが行われることになり、Jazz in Tokyoが全面的な支援をすることになりました。
今後とも、横浜の方々のご協力を得ながら、JAZZの発展に微力を尽くして行きたいと思っています。
ジャズは永い間、個人で楽しむ傾向が強く、時折自分の好みのアーティストをライブ・ハウスに聴きに行くケースが多かった。このケースを変えたのは1944年代にコンサートとして企画したノーマン・グランツのJ.A.T.P.であった。この最大の目的は、白人も黒人も一緒にジャズを楽しむコンサート(この場合には正確にはジャム・セッションであるが)としてスタートした。次に一般的になったのはニューポート・ジャズ・フェスティバルで1953年よりニューポートで開かれ19年間続けられた。1971年、若いジャズ・ファンが非常識な行動を起こしたので72年より会場をニューヨークに移し、今日まで約一週間文字通り最大のジャズ・フェスティバルが行われている。又、ウエスト・コーストではモンタレー・ジャズ・フェスティバルがカリフォルニア・モンタレーで1970年からこれも約一週間、華やかに行われている。又、これに前後してボストン、オハイオ、ニューオリンズ等、主として夏シーズンに開かれてファンを喜ばせている。アメリカ以外ではフランス・ニース、ノルウェイ・モルド、スエーデン・ストックホルム、西ドイツ・ベルリン等、皆70年代から開催され(中止の場合もあったが)多くのジャズ・グループがこれらコンサートで巣立っている。これらのフェスティバルは多くのグループが色々な会場で出演し、ファンは好みのグループを聴きに行くシステムで行われ続けられている。日本でも同様にこの形式のプロムナードが多く、神戸に於いては神戸ジャズ・ストリートが約25年ほど前より開催され(神戸の場合は主としてデキシーランド・ジャズ)、横浜でも今年15年目を迎える実績を持ち、近頃では千葉、阿佐ヶ谷でも夏と秋のシーズンには華やかに行われている。ジャズが個人からグループ化して楽しく聴く傾向が盛んになった様で同慶にたえない。
特に横濱JAZZプロムナードは回を重ねるごとに内容が幅広くなり、海外からのタレントもセレクションされ確実にジャズ・フェスティバルの内容が充実してきたことは関係者の努力が実を結んだといえよう。今後の飛躍的な発展を期待している。
いまわたしは40年ぶりに再会した恋人との暮しを楽しんでいる。恋人とは懐かしいムード・ミュージックのことである。きっかけはアメリカから送られてきた一枚の試聴用のディスクであった。わたしが友人と共同経営するCDレーベルからの日本発売を打診してきたものだ。ディスクの表面には「Lonely Town/Alan Kaplan」としか記されていない。「ロンリー・タウン」はミュージカル「踊る大紐育」のためにレナード・バーンスタインが作曲した曲であることはすぐにわかったが、アラン・キャプランというトロンボーン・プレイヤーはまったく聞き覚えがない。ディスクを聴いてみると次から次へと有名スタンダード曲がでてくる。その大半はフランク・シナトラ好みの曲である。といってもコンサートで毎度歌って聞かせる十八番というものではなく、アルバムにじっくりと吹き込まれた格調の高い名曲ぞろいである。
聴感上の印象を一言で言えばトミー・ドーシーがストリングス中心の大型の管弦楽(30人はくだらないだろう)をバックに吹いている感じである。アレンジは繊細緻密で、上品なことこの上ない。アランのトロンボーンはこのバックグラウンドの上を滑るようにたゆとおように流れていく。アドリブはおろかフェイクすらなく、一瞬たりとも原旋律から逸脱することがない。再会した恋人は年輪こそ加えたが美しさは昔と変わらず、大人の色気はさらに艶かしいのである。
こんなわたしの恋人、即ちムード・ミュージックの世界では1950年代にジャズ系アレンジャーやプイレイヤーによって多くのLPが作られた。ポール・ウエストン、ゴードン・ジェンキンズ、ジャッキー・グリースンら多士済々。その都会的な陰翳のあるサウンドは、曲のなかに短くフィーチュアされるジャズメンの至芸とあいまって極めてゴージャスな世界を作った。
その彼女が去っていったのは1960年代の終り頃だったろうか。山出しのポール・モーリア、レイモン・ルフェーヴルといったフランス小娘の出しゃばりが原因である。ジャズ色皆無、単純なリズム、垢抜けない旋律、薄っぺらなハーモニーはひたすら醜く貧相で吐き気を催すような代物であった。ひどいことを書くようだが、この醜女のために美しく上品な恋人と別れざるを得なかったのだからわたしの恨みは深いのである。彼女と別れた後、わたしはかつてのアルバムを入手しては、くりかえし彼女のおもかげを偲んだものである。
一体なぜこれほど愛した恋人が長らく姿を消していたのか考えたいところだが、最早再会できたのだからあえて問うまい。いまはひたすら彼女との暮らしを楽しむ毎日である。唯一願わくば横浜ジャズ・プロムナードのステージに彼女を立たせ、その艶姿を多くのひとに楽しんでいただきたいと思う。独り占めにするには彼女はあまりにも美しすぎるからである。