今年は昭和元年(1926年)から数えて100年になる。西暦で数えれば100年前は1925年だ。何れにしてもこの前後の時期はジャズ史の側面から捉えると、19世紀末にアフリカ系アメリカ人が創始した民俗色豊かな音楽が、四半世紀を経て現在の私たちが認識するジャズに成長した時期にあたっている。謂わばアフリカ系の人々のコミュニティの暮らしや文化から生まれた音楽が、人種や地域を越えて広域に浸透し始めたのがこの時代だった。
この渦中にあって飛躍的な発展に貢献のあった音楽家を二人だけあげるとすればデューク・エリントン(1899~1974年)、ルイ・アームストロング(1901~ 1971年)である。

(Photo by William P. Gottlieb / Library of Congress)

(Photo by William P. Gottlieb / Library of Congress)
二人の生年をみればお分かりのように、彼らの主な活動開始時期は1920年代だ。その躍進を助長したのが20世紀文明である。19世紀末から商用化されていたレコードにジャズが初めて録音されたのが1917年。ラジオ放送の開始(アメリカKDKA局)が1920年。トーキー映画商用化が1927年。
世相史的には第一次世界大戦(1914~18年)直後のことであり、日本も含む戦勝国では19世紀的な因習を捨て、道徳や風俗など生活文化が一変した時期でもあった。
ここに投じられたのが上掲の二人をはじめとするジャズのサウンドである。アメリカではこの時代をジャズ・エイジ(狂騒の20年代。社会、芸術および文化の力強さを新興のジャズに象徴させた言葉。F・スコット・フィッツジェラルドの小説名に由来する)と呼び、日本ではモボモガ時代(モダン・ボーイ、モダン・ガールの略語。1920年代の先端的な若い男女と彼らが作り出した風俗流行を指す)といわれた。
日本にジャズが入ってきたのはまさにこの時代だった。明治維新から半世紀余。国をあげて近代化に励み、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦勝国となり、欧米先進国の驥尾に付した浮かれ気分のさなか、最新のトレンドとしてジャズが入ったのである。流行現象の常として特に都会の青年男女に喜ばれ、社交ダンスが大流行した。
では横浜へジャズが上陸した正確な時期と場所は何処だったのか。政治的な出来事などは正史に書き残されるが、流行現象はそれが何時だったのかは特定することは難しい。しかし国際貿易港横浜に関しては、いくつかの有力な根拠をあげることができる。
東洋汽船地洋丸に乗組んだ楽員が持ち込んだ1920年説
1912年7月20日、横浜港から北米航路に就航していた東洋汽船「地洋丸」がサンフランシスコに向けて出航した。そこには船客を楽しませるための楽団として、東洋音楽学校を出たばかりの波多野福太郎をはじめ5人のミュージシャンが乗船していた。後に日本ジャズ史にその名を残すことになるハタノ・オーケストラの前身である。彼らはサンフランシスコに着くとシャーマン・クレー楽器店を訪れ、日本では手に入らない大量の楽譜を購入した。1918年に船の仕事を終えて下船した彼らは、東京都内のホテルのダンス・パーティ、無声映画の音楽伴奏などで活躍。こうした場所で洋楽を演奏していたバンドの仕事の一つが1920年に鶴見の丘の上に作られた<花月園舞踏場>である。このダンス・ホールは新橋の料亭<花月>を経営する平岡広高夫妻によって1914年に開設された<花月園遊園地>内に増設されたもので、一般庶民の男女ペアでの来場を促した。今も京浜急行の駅名に花月の文字が残されている。1921年からは時の人気バンド、ハタノ・オーケストラがコルネット、フルート、サックス+リズムの6人編成(順次拡大して最大25人編成)で出演。京浜間の紳士淑女に親しまれた。曲はアーヴィング・バーリンが1911年に発表した「アレクザンダーズ・ラグタイム・バンド」や当時のヒット曲「ホイスパリング」「ダーダネラ」等。このころ横浜本牧に住み映画製作に携わっていた谷崎潤一郎なども常連だった。
松旭斎天勝が7人編成のアメリカ人ジャズ・バンドとともに公演した1925年説
美貌の奇術師として人気のあった松旭斎天勝は、1924~25年にかけて米国公演をした際に共演したジャズ・バンドを気に入り帯同して帰国。彼女の一座が伊勢佐木町の喜樂座で開演したのが1925年7月1日。水芸で有名な彼女は、奇術よりもジャズ・バンドに女性ダンサーの伴奏をさせて評判をとった。演奏曲目はこの前年にアイラとジョージのガーシュウィン兄弟が発表した「サムボディ・ラヴズ・ミー」や「ライムハウス・ブルース」等。

「歸朝御披露 松旭齋天勝一座歸朝記念興行 喜樂座」(美人舞踊家・音樂家 ジヤヅバンド 一行 新加入)
横濱貿易新報(神奈川新聞の前身)の同年7月8日の演劇欄に「外人揃いのジャズ・バンドに娘子軍(女性ダンサー)の惜しげもない全裸体に近い豊艶な曲線美が躍動すると観客は固唾を呑んで見入っている」と(梨)と署名する評者は書いている。このジャズ・バンドは黒人とハワイ人の混成8人編成だったという説もある。内容は当時最新のルイ・アームストロングらのニューオリンズ・スタイルだったと推測される。以上は横浜ジャズ協会で長く理事を務めた故柴田浩一の調査によることを付記するとともに、1925年が「横浜ジャズ100年」の基数であることを明らかにしておく。
なお横濱貿易新報は、開港地の報道機関らしくジャズに関心を寄せ、1926年8月29日付の同紙1面に、横浜在住で神奈川区の二谷尋常高等小学校(現横浜市立二谷小学校)の音楽教師を務めていた三浦俊三郎という人物のジャズへの期待と可能性に言及した「国民性と時代相とを基礎とした新音楽の出現」という題の記事を掲載している。記事の一部を紹介する。
「人間のあらゆる情緒を表現する各種の楽器、これを同時に使用することに依って表現される交響楽の歓喜へと若き魂は帰向して行く」として、トランペットなど14種の楽器の音色の特徴をあげ「人間の情緒と其の変化を物語る響に耳を聳てている」とジャズの豊かな音色の組み合わせを想像している。
これらの横浜に渡来したジャズに関わる新しい風俗については、ジャズの本国アメリカも好奇の目でみている。1922年6月25日付のニューヨーク・タイムズにバーネット・ハーシーという旅行家が世界一周旅行の途次、横浜に立ち寄った際に聞いたジャズの印象を寄稿している。
「横浜に着いて何時間もしないうちに、ジャズ・バンドがグランド・ホテル(現ホテル・ニューグランドの前身)から聞こえてきた。日本の都市のなかで最もヨーロッパ的なこの都市には半ダースほどのジャズ・バンドがある。一流ホテルでは元米海軍のバンドリーダー率いるヨーロッパの楽隊がラグタイムをやっている。それ以外は日本人のグループで、西洋を模倣するすばらしい能力を持って、ジャズもどきを何とかやろうと一生懸命だ。」(細川周平著『近代日本の音楽100年第4巻ジャズの時代』より引用)
このように、ジャズの横浜渡来については諸説あるが、いずれも太平洋を横断する北米航路で帰国した新帰朝者が運んだものであること、そしてその入り口が横浜であったことは確実であり、鶴見花月園、伊勢佐木町喜樂座、山下町グランド・ホテルなどでジャズが聴こえていたということは、ジャズに馴染んだ最初の一般庶民が横浜市民であったことを示す裏付けと捉えて間違いないだろう。
2025年7月
小針俊郎
小針俊郎
ジャズ評論家、プロデューサー。1948年横浜市生まれ。1970年開局の年に株式会社エフエム東京入社。主として番組編成・番組制作セクションに勤務。2007年退社。現在ジャズのイベント制作、CD制作、ラジオ番組制作、新聞、雑誌等へのジャズ関連の記事の執筆を行う。一般社団法人横浜ジャズ協会副理事長、一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長を務めている。

参考文献
文中に引用元を記した資料の他、本稿執筆には下記の文献を参考資料として使用した。
- 宮脇俊文・細川周平・マイク・モラスキー(編著)『ニュー・ジャズ・スタディーズ――ジャズ研究の新たな領域へ』アルテスパブリッシング(2010).
- 吉田衛『横浜ジャズ物語:「ちぐさ」の50年』神奈川新聞社(1985).
- 内田晃一『日本のジャズ史――戦前・戦後』スイングジャーナル社(1976).
- 細川周平『近代日本の音楽百年 黒船から終戦まで 第4巻 ジャズの時代』岩波書店(2020).
- 相倉久人『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書)集英社(2012).
- 毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』講談社(2010).
- 平岡正明『戦後日本ジャズ史』アディン書房(1977).
- 油井正一(著)/行方均(編)『ジャズ昭和史――時代と音楽の文化史』DU BOOKS(2013).
- マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化――映画・文学・アングラ』(岩波現代文庫)岩波書店(2017).
- 二谷尋常高等小学校などで訓導を務めた三浦俊三郎は『本邦洋楽変遷史』(昭和6年)で横浜市歌を取り上げ、「行進曲風に出来て居て、歌謡風でない處が歌ひ手を困らせてゐる。」としつつも、「今日に至るまで全市児童並に青年の集会記念式等に歌はれ市歌としての眞價を發揮して居る。」と紹介し、「自分は永久にこの市歌の存続を希ふものである。」と述べています。