第四章 モカンボ・セッションとリアル・ジャズ

戦後日本にジャズ・ブームを作ったジーン・クルーパ、JATPそして前掲の日本人ミュージシャンのジャズは概ねスウィング乃至モダン・スウィング系統の音楽だった。来日組にしても1930年代~40年代から活躍する人々で、最も若いオスカー・ピーターソンが20代後半で、アメリカで最新のジャズのスタイルであるビバップ(モダン・ジャズの母体)を理解するメンバーは少なかった。

 ビバップは1940年頃から、当時隆盛だったビッグバンドの最高の人気と実力を誇ったデューク・エリントン、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマンの各楽団に在籍した有能且つ進取の気性に富んだミュージシャンが実験的に始めた音楽だ。彼らは多忙なビッグバンドの仕事の合間を縫って同好のミュージシャンとジャム・セッションで腕を競い合い、スウィング時代までのジャズにはなかった楽理と技術を磨いていった。

この一群の若者の中から現れたのがセロニアス・モンク(ピアノ)、バド・パウエル(ピアノ)、ディジー・ガレスピー(トランペット)、チャーリー・パーカー(アルト・サックス)らである。アンダー・グラウンドで行われていた彼らの音楽が一躍世に出たのが1945年終戦の年のことだ。

 前章に紹介した原信夫の「東京の米軍クラブは上品なダンス・ミュージックを要求されましたが、横浜は黒人兵が多いのでジャズ的な演奏が好まれました。だからビバップも横浜からおこったんです」という証言の通り、若い黒人兵の間ではジーン・クルーパもJATPメンバーの演奏も既に流行遅れで、彼らは最新のジャズであるビバップを要求したのだ。ところが戦時中一切のジャズが禁じられていた日本人ミュージシャンは、この数年間に起こった進化したジャズに着いてゆく術もなかった。しかしか細いながら入ってくる情報や音源を頼りにビバップに魅せられた若手ミュージシャンも現れてくる。戦後のジャズ・ブームとは別に、シリアスで芸術的なジャズを目指した若者たちの名をあげれば守安祥太郎(ピアノ)、宮沢昭(テナー・サックス)、清水閏(ドラムス)、五十嵐武要(ドラムス)、五十嵐明要(アルト・サックス)、山屋清(アルト・サックス)そして若き日の穐吉敏子(ピアノ)、渡辺貞夫(アルト・サックス)等々。

 横浜は彼ら日本のモダン・ジャズの礎を作る人々の揺籃の地でもあった。これらの人々が集う「幻」といわれる<モカンボ・セッション>が伊勢佐木町で行われたのだ。このセッションの詳細は後述するとして、当時の戦後派若手ミュージシャンの横浜における動向を<ちぐさ>吉田衛を中心に見ていきたい。

 前述のように吉田は1946年に復員後、1947年に<ちぐさ>を再開するのだが、看板のジャズのレコードを集める苦心は大変なものだった。幸い戦火をまぬがれたレコードを持ち寄ってくれる友人たちによって1000枚ほどのSPレコードで営業を始めた。進駐軍の兵士が提供してくれた300枚のVディスク(Vディスクは戦地慰問用に米国政府が制作したレコードで民間に流すことは禁じられていた)も最新音源であるだけに人気があった。現在も<ちぐさ>には数十枚のVディスクが保存されている。

当時の<ちぐさ>はジャズ・ファンが集まるだけではなく、市内各所の米軍クラブで働くミュージシャンのたまり場兼連絡事務所としての機能も果たしていた。すでに「横浜ジャズ・シーンの女王」といわれ、第8軍の軍楽隊に所属していたピアニストのハンプトン・ホウズに師事してビバップを研究していた穐吉敏子もその一人だ。彼女の回想。

 「私が<ちぐさ>に出没したのは1954年から56年の頃。レコードはとても高くて自分では買えなかった。そう<ちぐさ>に行かなければ聴けなかった。聴きながらマスターの淹れてくださったコーヒーを飲みながら五線紙をひろげて採譜したものです。ワン・コーラスを何度も気持ちよく繰り返してくださいました」。

 このとき穐吉が採譜し勉強したのはバド・パウエルであっただろう。彼女はハンプトン・ホウズの紹介で、JATPの一員として来日したオスカー・ピーターソンと出会う。銀座<テネシー>で穐吉を聴いたピーターソンは早速ボスのノーマン・グランツにレコーディングを進言。グランツは当時有楽町にあったラジオ東京のスタジオで10吋LP一枚分の穐吉の演奏を録音して自らのレーベルから発売している。世界の穐吉への第一歩だった。

 この穐吉も含む上掲の若手たちが伊勢佐木町のナイト・クラブ<モカンボ>に集い、前後3回行われたセッションの最終回が行われたのが1954年7月27日深夜から翌朝にかけてだ。この日の録音が『幻のモカンボ・セッション’54』として後にLP(その後CD化)として発売された。

『幻のモカンボ・セッション’54』LP盤(Vol.1–4)のジャケット写真

<モカンボ>は伊勢佐木町二丁目にあったクラブで、発端はこのクラブにギタリストとして出演していた植木等とハナ肇(ドラムス)、沢田駿吾(ギター)が、クラブの営業時間終了後の午後11時から翌朝までを借り受け、ルーティン仕事に飽いたミュージシャンにジャム・セッションの場を提供しようという企画だった。セッションだから来場客はもちろん出演者も参加費500円を拠出して場所代を賄い、用意された飲み物や夜食用のサンドイッチ、すしなどは数十円で販売された。密かにヒロポンも用意されていた。

この日の録音で我々が知ることが出来るのは、天才守安祥太郎の神技である。ヴィブラフォン奏者で『日本のジャズ史:戦前戦後』を著した内田晃一は自著にこう書いている。

 「(この当時)横浜のジャズ・シーンは日ごと熱気をおび、守安祥太郎はその指導的ミュージシャンになった。横浜に進駐してきた若い黒人兵達は日本のジャズメンにPlay bop!と叫び踊り狂っていた」。

ビバップが伝わって間もないころ、完璧にこれをマスターした守安はこの翌1955年9月に目黒駅で飛び込み自殺をしている。失恋が原因と噂された。

小針俊郎

ジャズ評論家、プロデューサー。1948年横浜市生まれ。1970年開局の年に株式会社エフエム東京入社。主として番組編成・番組制作セクションに勤務。2007年退社。現在ジャズのイベント制作、CD制作、ラジオ番組制作、新聞、雑誌等へのジャズ関連の記事の執筆を行う。一般社団法人横浜ジャズ協会副理事長、一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長を務めている。

参考文献

文中に引用元を記した資料の他、本稿執筆には下記の文献を参考資料として使用した。

  • 宮脇俊文・細川周平・マイク・モラスキー(編著)『ニュー・ジャズ・スタディーズ――ジャズ研究の新たな領域へ』アルテスパブリッシング(2010).
  • 吉田衛『横浜ジャズ物語:「ちぐさ」の50年』神奈川新聞社(1985).
  • 内田晃一『日本のジャズ史――戦前・戦後』スイングジャーナル社(1976).
  • 細川周平『近代日本の音楽百年 黒船から終戦まで 第4巻 ジャズの時代』岩波書店(2020).
  • 相倉久人『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書)集英社(2012).
  • 毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』講談社(2010).
  • 平岡正明『戦後日本ジャズ史』アディン書房(1977).
  • 油井正一(著)/行方均(編)『ジャズ昭和史――時代と音楽の文化史』DU BOOKS(2013).
  • マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化――映画・文学・アングラ』(岩波現代文庫)岩波書店(2017).