第三章 戦後ジャズ・ブームの到来

前章で紹介した吉田の言葉のとおり、米軍クラブ(横浜市内のクラブが閉鎖されたあとは各地の米軍基地内の娯楽施設)は「戦後のジャズ史に名を残す一流プレイヤー、歌手が育つ」場所だった。その代表として後に名門ビッグバンド、シャープス・アンド・フラッツを組織する原信夫の思い出を紹介する。

原信夫(1950年代撮影)/HARA Music Japan提供
https://haramusicjapan.com/haranobuo/

原信夫は1926年生まれ。1943年に大日本帝国海軍軍楽隊に入団。横浜海兵団に配属され終戦まで海軍軍楽隊で過ごす。戦後軍楽隊時代の先輩から誘われジャズ・ミュージシャンになった。バンドマンとして出ていたのは前述の<オリンピック>他。

原は「あの頃は横浜がジャズのメッカだった」という。住まいも横須賀から横浜に移し、長く神奈川区の七島町、六角橋に住まった(後に東京都渋谷区広尾に転居)。

「横浜は米軍が多かったから米兵を通じてアメリカの流行に一番早く影響された。ジャズはもちろん、男のファッション、ジャズ・ダンスのジルバも横浜から流行ったんです。ハマジルと言いましたね。とにかく東京の米軍クラブは上品なダンス・ミュージックを要求されましたが、横浜は黒人兵が多いのでジャズ的な演奏が好まれました。だからビバップも横浜からおこったんです」。

原の言葉によると、至る所に焼け跡がのこる終戦後間もない時期に、横浜の若者たちの間では早くもアメリカ文化に感化される風潮があったことがわかる。

筆者は1948年生まれだが、返還前の山下公園の中に、米軍が建てた白い住宅が立ち並ぶのをフェンス越しに見たことを覚えている。1955年頃のことだと思う。それなりの地位のある将校が本国から家族を呼び寄せたのだろう、自分と同じような年齢の子供たちが芝生の上で遊んでいた。そこにアメリカの匂いを嗅ぎとって目の前の横浜港の海をみながら、幼心に遥かアメリカへの憧憬も覚えた。

戦時中にあれほどの被害を被り、鬼畜米英と嫌忌した大人たちも、さして気にもせずにジャズにのめり込んでいったのもこの頃である。ジャズを利用した米側の宣撫工作の一環であったかもしれない。

1952年4月、ベニー・グッドマン楽団のドラマーとして一世を風靡したジーン・クルーパが来日する。戦前のジャズマン来日の記録は不確かなものしか残っていないので、クルーパは史上初の大物のミュージシャンの来日といえる。サックスのチャーリー・ヴェンチュラ、ピアノのテディ・ナポレオンを従えたジーン・クルーパ・トリオの横浜公演は野毛の横浜国際劇場で行なわれた。「本場の一流ジャズメンの生演奏に接したことのない大衆を大興奮させた」とは前掲<ちぐさ>の吉田衛の証言。

ジーン・クルーパ(Photo by William P. Gottlieb / Library of Congress)

翌1953年11月にはノーマン・グランツ率いるJATP一行13人が来日。いずれもジャズ史上に大きな名声を残すビッグ・スター揃い。彼らは東京大阪で都合8日間昼夜16公演を行い5万人以上の観客を集めた。

その名はベン・ウェブスター、フリップ・フィリップス(テナー・サックス)、ベニー・カーター(アルト・サックス)、ロイ・エルドリッジ、チャーリー・シェイヴァース(トランペット)、オスカー・ピーターソン(ピアノ)、レイ・ブラウン(ベース)そしてエラ・フィッツジェラルド(ヴォーカル)等々。


「Jazz at the Philharmonic」コンセルトヘボウ公演(1959年4月11日)、オスカー・ピーターソン・トリオ。撮影:Wim van Rossem/Anefo。所蔵:オランダ国立公文書館(CC0 1.0)。Bestanddeelnr 910-2887。

「1953年は終戦後8年目です。至るところに焼野原が残り、闇市があったり混沌としていました。そこにジャズが進駐軍とともに入ってきました。戦時中は敵性音楽として禁じられていたジャズが進駐軍放送から流れてくる。一般の人々も娯楽に飢えていましたから、軽快にスウィングする音楽に惹きつけられ、空前のジャズ・ブームが起きます。JATPの来日にはそんな社会的背景がありました」。

こう語るのは、招聘元のタイヘイ・レコードの社長石井廣治の子息で、衆参両院で50年以上議員を務めた元国務大臣の故石井一だ。彼はJATP一行の歓迎のためにパレードを立案し羽田から数寄屋橋の日劇までのコースの先頭車両の運転をしたという。

「パレードですからオープン・カーを20台集めました。クルマが貴重な時代ですから大変でしたよ。ミュージシャン一人に一台ずつです。その沿道がまるで箱根駅伝のようにファンで埋め尽くされました」。

 ジャズ史上の大物とはいえ「箱根駅伝のように沿道を埋め尽くした」大群衆の大半は、彼らの名も知らなければ、ジャズとはどのような音楽であるかも知らなかっただろう。東京(日劇)、大阪(梅田劇場)という大ホールの公演は大盛況だったというが、これも「娯楽に飢えていた時代」の群集心理だっただろう。石井がいう「至るところに焼野原が残り、闇市があった」という暮らしのなかで、ジャズの「過激なリズム」元気な「騒音」が、一般大衆の心に明るい灯をともしたのだ。

 以上にあげたジーン・クルーパ・トリオ、ノーマン・グランツ率いるJATPに巻き起こされたジャズ・ブームは、彼らの帰国後しばらくの間、日本人ミュージシャンによって引き継がれる。その名をあげれば渡辺晋とシックス・ジョーズ、与田輝雄とシックス・レモンズ、レイモンド・コンデ、松本文男、フランシスコ・キーコ等々。

この中で伝説的な人気を誇ったのがジョージ川口とビッグ・フォーだ。ドラマーのジョージ川口をリーダーに松本英彦(テナー・サックス)、中村八大(ピアノ)、小野満(ベース)の4人組。1954年の彼らの月収は一人40万円だったという。平均的なサラリーマンの月収が1万7千円だった頃のことだ。

2025年9月
小針俊郎

小針俊郎

ジャズ評論家、プロデューサー。1948年横浜市生まれ。1970年開局の年に株式会社エフエム東京入社。主として番組編成・番組制作セクションに勤務。2007年退社。現在ジャズのイベント制作、CD制作、ラジオ番組制作、新聞、雑誌等へのジャズ関連の記事の執筆を行う。一般社団法人横浜ジャズ協会副理事長、一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長を務めている。

参考文献

文中に引用元を記した資料の他、本稿執筆には下記の文献を参考資料として使用した。

  • 宮脇俊文・細川周平・マイク・モラスキー(編著)『ニュー・ジャズ・スタディーズ――ジャズ研究の新たな領域へ』アルテスパブリッシング(2010).
  • 吉田衛『横浜ジャズ物語:「ちぐさ」の50年』神奈川新聞社(1985).
  • 内田晃一『日本のジャズ史――戦前・戦後』スイングジャーナル社(1976).
  • 細川周平『近代日本の音楽百年 黒船から終戦まで 第4巻 ジャズの時代』岩波書店(2020).
  • 相倉久人『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書)集英社(2012).
  • 毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』講談社(2010).
  • 平岡正明『戦後日本ジャズ史』アディン書房(1977).
  • 油井正一(著)/行方均(編)『ジャズ昭和史――時代と音楽の文化史』DU BOOKS(2013).
  • マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化――映画・文学・アングラ』(岩波現代文庫)岩波書店(2017).