敗戦後最も早い時期に米軍を主体とする連合軍の進駐を受けたのが横浜である。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に到着、宿舎とされたホテルニューグランドに入ったのが1945年8月30日。
金沢区沖に停泊する戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式が9月2日。海岸通一丁目の横浜税関にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が置かれ、全市はロバート・アイケルバーガー中将を司令官とする米軍第8軍の占領下に入った。GHQは間もなく東京に移されるが横浜税関は第8軍の司令部とされ、中心部の主な建物は接収され山下公園には将校宿舎が、伊勢佐木町裏には飛行場が造られた。埠頭などの港湾設備も9割が接収され、日本船の出入りはできなくなった。
こうした敗戦後の横浜に米軍とともに上陸したのがジャズである。1945年5月の横浜大空襲のため焼け野原となっていた横浜に進駐した米軍将兵はおよそ10万人。一般兵は伊勢佐木町、関内に急造したカマボコ兵舎に、士官は山下町、本牧、根岸に1000戸を越える住宅が用意された。山下公園内にも35棟の住宅が建設された。
これら将兵慰問のための施設も伊勢佐木町、関内、山下町、中華街、横浜公園周辺に20軒以上建てられた。主なものは常盤町の<オリンピック>、紅葉坂下<サクラ・ポート>、中華街加賀町署近くの<ゼブラ・クラブ><ニューヨーカー>、山下町の<シーメンズ・クラブ><コロニアル・クラブ>等々。戦時中は弾圧されていたジャズメンの需要が急増し、京浜間のミュージシャンが集められた。
1933年に野毛にジャズ喫茶<ちぐさ>を開店、1942年の応召するまでに6000枚のレコードを集めていた吉田衛が中国から復員したのが1946年。翌年<ちぐさ>を再開し、敗戦後の横浜を野毛から見ていた吉田の言葉を引用する。
「復員して真っ先に駆け付けた<ちぐさ>跡は焦土と化していた。苦心して集めたレコードは影も形もなかった。しかし焼け跡から流れ出るラジオの進駐軍放送からは軍隊で夢にまで見たジャズが一日中鳴りわたっているではないか」
吉田は焼け跡に立って<ちぐさ>再開を決意。再建開店の苦労のなかで、吉田は日本人オフリミットの米軍クラブの様子も正確に観察していた。
「(米軍クラブでは)毎晩ビッグバンドやコンボや歌手が、米軍将兵や日本人のダンサー、ホステスたちのためにジャズを華々しく演奏していた。その中から戦後のジャズ史に名を残す一流プレイヤー、歌手が育っていった。いわば横浜は戦後ジャズ発展の温床だった」。
前述のように、これらのクラブは米軍人専用で、ミュージシャンなど関係者以外、日本人が客として入店することは禁止されていた。しかしジャズ再興に情熱を燃やす吉田は「親しいミュージシャンにくっついてクラブ内に入れてもらい、ジャズを明け方まで聴くのが楽しみだった」と回想する。


2025年7月
小針俊郎
小針俊郎
ジャズ評論家、プロデューサー。1948年横浜市生まれ。1970年開局の年に株式会社エフエム東京入社。主として番組編成・番組制作セクションに勤務。2007年退社。現在ジャズのイベント制作、CD制作、ラジオ番組制作、新聞、雑誌等へのジャズ関連の記事の執筆を行う。一般社団法人横浜ジャズ協会副理事長、一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長を務めている。

参考文献
文中に引用元を記した資料の他、本稿執筆には下記の文献を参考資料として使用した。
- 宮脇俊文・細川周平・マイク・モラスキー(編著)『ニュー・ジャズ・スタディーズ――ジャズ研究の新たな領域へ』アルテスパブリッシング(2010).
- 吉田衛『横浜ジャズ物語:「ちぐさ」の50年』神奈川新聞社(1985).
- 内田晃一『日本のジャズ史――戦前・戦後』スイングジャーナル社(1976).
- 細川周平『近代日本の音楽百年 黒船から終戦まで 第4巻 ジャズの時代』岩波書店(2020).
- 相倉久人『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書)集英社(2012).
- 毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』講談社(2010).
- 平岡正明『戦後日本ジャズ史』アディン書房(1977).
- 油井正一(著)/行方均(編)『ジャズ昭和史――時代と音楽の文化史』DU BOOKS(2013).
- マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化――映画・文学・アングラ』(岩波現代文庫)岩波書店(2017).