インタビュー

横濱 JAZZ PROMENADE 2013

JAZZプロ2013・特別寄稿
大橋巨泉「古き良き時代のヨコハマ」

ジャズ評論家時代の大橋巨泉

今年の横濱JAZZ PROMENADEも聴きどころ満載だが、その一つが10月13日(日)午後3時40分から関内大ホールで行われる大橋巨泉と次女の豊田チカの共演だ。これを椎名豊トリオ+三木俊雄がサポートするという豪華なものだ。このステージの主役の一人、大橋巨泉 氏から、当プログラムのために特別寄稿をいただいた。巨泉氏はTVタレントや作家としての名声があまりにも大きく、若いファンの中には、ジャズとの関わりをご存じない方も多いだろう。多芸多才の彼の最初の職業はジャズ評論家だったのである。1950年代前半から執筆活動を始め、ミュージシャンとの幅広い交友、ジャズ・ヴォーカルへの深い造詣から衆望を集め、当時もっとも影響力の大きな評論家になっていく。その当時の活躍ぶりや、横浜との所縁をテーマに書いて下さるようお願いして、書き下ろしていただいた。

大橋巨泉さん

古き良き時代のヨコハマ

大橋巨泉

ボクが一番横浜へ通ったのは、1950年代の後半から60年代の初めにかけて、であった。若手のジャズ評論家で、構成者、司会者としても売れ出した頃である。当時横浜には、ブルースカイ、ナイトアンドデイ、クリフサイドと三つの大きなナイトクラブがあった。東京にもマヌエラ、コパカバーナなどの有名クラブがあったが、東京を離れた方が人目も少ないので、銀座がハネたあと、皆よく出かけたものである。

ボクはブルースカイ派で、3回に2回はそこへ行った。スマイリー小原さんのバンドが出ていて、よく盛り上げてくれた。そのうちそこのナンバーワンの女性と割りない仲になって、横浜の彼女の家に泊まりつづけたこともある。当然ボクは妻帯者だったが、若くて(24歳前後?)熱くなった。彼女はしきりに帰宅をすすめたが、ボクは意地になっていた。危うく離婚という所で、事務所の社長や笈田敏夫さんがアリバイを作ってくれて帰宅できた。周りは皆大人で、ボクだけ子供だった。

音楽的にも横浜は自由で、結構若手がジャムっていた。当時開局したばかりのラジオ関東(現RFラジオ日本)に高桑敏雄君という秀れたディレクターが居て、発表の場のないモダン・ジャズメンのために、「モダン・ジャズ・コーナー」という不定期の番組を作ってくれた。ボクは構成と司会と運転手(予算がないので、東京の仕事が終わったジャズメンを横浜まで自分の車で運んだ)までやった。

ボクは構成と司会で一回二千五百円、ミュージシャンは一律一人千円であった。これで、渡辺貞夫、宮沢昭、八木正生、八城一夫、北村英治、西条孝之介らが喜んで出演してくれたのである。条件は「何でもやりたいものをやって良い」である。この番組から八城一夫の名演「モンキー・ドライバー」(お猿のカゴ屋)が生まれた。

録音が終わると大体午前3時を過ぎていた。皆ハラが減っていた。当時朝までやっていた「根岸屋」に寄って、ビールを呑み、ラーメンをすすった。大体ボクが払うので、いつも足が出たが、その充足感には代えられなかった。白み始めた第二国道を東京に向いながら、ボクは幸せだった。何よりもジャズメン達の、ボクに対する信頼がうれしかった。

まさに「古き良き時代」だったのである。信じられない話をしよう。あるクリスマス・イブに、西条孝之介、三保敬太郎、沢田駿吾らと横浜に出かけた。当時西条が大きなフォードを持っていて、6人乗れた。二、三軒はしごをして、東京へ向う途中、パトカーに止められた。「飲んでるかね」とお巡りさん、「ほんの少しだけ」と西条。「あんまり飲んで運転すると、キリスト様のところへ行っちゃうよ」「えっ、お巡りさん。ウマイ・ウマイ・ウマイ」と皆で乗せた。苦笑した巡査は「気をつけてな」と行かせてくれた。本当に「古き良き時代」だったが、運が悪ければ死んでたね。

スタンダード全盛の礎を築いた大橋巨泉

大橋巨泉の少年時代からの趣味は俳句と歌舞伎とジャズであった。三つの趣味に共通するものはリズムである。五七五の俳句。七五調の歌舞伎の台詞「月も朧に白魚の…」他。そしてジャズのスウィング感。俳句や七五調の台詞は和歌からの伝統をひく日本のリズム。スウィングは言うまでもなくジャズ独特のノリである。これら少年期に内在化してしまったものが、後に彼が携わることになるあらゆる職業に有利に働いたものと思う。放送作家、番組の発想力と企画力、野球、ゴルフ、フィッシング他のスポーツ、そしてなにより話術。

俳句、歌舞伎、ジャズはいずれも音で聴くことができる芸術であり、それも言葉がついてまわる。近年は言葉を朗誦すること少ないが、巨泉少年は言葉を文字から理解すると同時に、音響を通して身体的に理解してきたのである。これは大きい。対象への理解の深さが違う。彼が英語に堪能なのも、文字だけではなく、ジャズ・ヴォーカルを通した耳からの情報に敏感だったからだろう。良き時代の「ヨコハマ」について触れた上掲エッセイの文体にも、巧みな話芸を聴くようなリズム感がある。彼がジャズ評論家として成功したのも、ジャズを頭で理解するのではなく、聴覚を通じて、身体全体で受けとめる才があったからだ。

1953年というから、大橋巨泉が早稲田大学二年生の19歳当時、日本初の民放TV局「日本テレビ(NTV)」が開局する。既にヴォーカル通として知られていた彼は、NTVの音楽部長に就任していたジャズ評論家の藤井肇の仲介によって、同局の若手ディレクター、井原高忠の知遇を得る。TVヴァラエティ番組の開拓者である井原と巨泉はよく話が合ったらしい。彼らの交遊から後に『11PM』『巨泉×前武ゲバゲバ90分』が生まれる。

1957年、井原からの依頼で巨泉は『ニッケ・ジャズ・パレード』の仕事を引き受ける。巨泉の仕事は選曲された歌の訳詞である。評論と並んで、巨泉が輝くのはスタンダード・ソングを日本語に移しかえる仕事である。英語は中学時代からの得意科目であり、高校に進学してからはアテネ・フランセに通って磨きをかけていた。実践的には進駐軍放送で毎日のように音楽番組を聴いて、歌詞を聴きとっていたのだ。1950年前後のことで、ロック以前のアメリカン・ポピュラーの全盛期。ドリス・デイやフランク・シナトラの曲が多かったろう。いまやスタンダード・ソングといわれる彼らのレパートリーを、青春時代の巨泉は浴びるように聴き、一曲一曲歌詞をノートに書きとっては訳していったのだ。単に英語に強いだけでは出来ない詩情あふれる訳である。それにはまた、少年時代から鍛えた俳句の語感、用語センスも活かされただろう。実に機微をついた意訳がうまかった。この仕事は好評をもって迎えられ、二年以上続いたという。NTVをはじめとするTVタレントとしての躍進の出発点である。

こうしてジャズ(評論、司会、構成)と放送の仕事が順調に回りはじめた頃が、上掲エッセイの時代である。1963年からはラジオ関東で『昨日の続き』も始まる。その後の活躍はご存じのとおり。

大橋巨泉さんと豊田チカさん

今春、優雅なセミ・リタイア生活をおくる大橋巨泉は79歳になった。彼の願いは80歳までに、もう一枚ジャズ・ヴォーカルのアルバムを作ることだった。トニー・ベネットは例外として、流石のシナトラも歌手としては80歳が限界だったというのが、評論家巨泉の持論。次女の豊田チカがこの希望に応え、二人のデュエット・アルバムが完成した。10月13日の関内大ホールのステージは、その最初の披露目でもある。多方面で著名な父と、実力派ジャズ・ヴォーカリストの娘の共演というだけでも話題性十分だが、これをサポートするのが椎名豊(p)、本川悠平(b)、広瀬潤次(ds)に三木俊雄(ts)という気鋭のメンバー。巨泉は歌が本業ではないが、知識とセンスは抜群。「オンリー・トラスト・ユア・ハート」、ミュージカル『マイ・フェア・レディー』から「彼女の顔に慣れてきた」などを聴かせてくれるだろう。チカは「ソング・フォー・マイ・ファーザー」で父への敬意をあらわす。父娘デュエットでは「素敵なあなた」「ドゥリーム」などを披露する予定だ。いずれもジャズとスタンダードに通暁した巨泉とチカの選曲である。聴きごたえのあるステージになることは間違いない。

青年時代の巨泉が情熱を燃やしたジャズ・ヴォーカルは、いまや日本のジャズ・シーンに欠かせない存在だが、未開だったその土地を、豊饒な大地に変えたのは大橋巨泉の顕著な功績なのである。

(ジャズ・プロデューサー 小針俊郎)

~横濱 JAZZ PROMENADE 2013 公式プログラム(2013年10月12日発行)より~