Columnコラム

第4回「ニューオリンズ(大正)からスイング(昭和戦前)へ」

―Wrote By柴田 浩一―

 戦前のジャズの歴史はダンス・ミュージックの歴史だ。アメリカへ渡る客船バンドとして第1回目の航海演奏の船が横浜を出たのが明治45年。アメリカへ渡り、勉強にはなっただろうが大正年間はジャズとはいっても、ダンス音楽と言い切っていいだろう。日本のダンス・ホールの草分け的存在であった鶴見の花月園舞踏場は大正12年(1923)の関東大震災によって、たった3年で幕を閉じた。だが横浜にはもう一つのダンス・ホールがあった。明治の時代を経て蓄音機でダンスが踊れる“チャブ屋”だ。この語源については諸説あるがCHOP HOUSE(食堂)というのが有力だ。そしてそれは表向きでありいわゆる外国人、特に船乗り相手の私娼館だ。今の小港の山手警察署の裏あたりから本牧十二天へと続く道沿いに20を超える店舗があった。さらに石川町駅から山手に上がる大丸谷あたりにも10軒を超える店があったという。本牧の方は長谷川伸や谷崎潤一郎の本などに登場するほど有名で、切り立った崖の十二天に寄せる波や砂浜に映える松、そして真っ青な海、外国人にとってはユートピアだったに違いない。そういう店では朝までダンスが踊れたという。日本人には一般的とはいえない場所だが、ダンス好き、洋楽好きが船の出たあとの暇な時に遊びに行ったのだろう。
 昭和4,5年(1929)ごろには市中にもダンス・ホールが続々と出来た。時を同じくしてジャズ喫茶も登場した。世界大恐慌時代という不況下にもかかわらずだ。「ちぐさ」店主吉田衛さんによれば横浜では吉田町の「メーゾン・リオ」が最初だという。このジャズ喫茶の方がレコードによるものだけにジャズ史としては判りやすい。「ちぐさ」は少し遅れて昭和8年の開店。そのころアメリカではスイングの王様となるべく、ベニー・グッドマンが着々と準備を進めていた。吉田さんによれば当時のリクエストのベスト・スリーは「タイガー・ラグ」、「セントルイス・ブルース」、「ダイナ」だったそうだ。「リンゴの木の下で」や「君微笑めば」なんかも入っていそうだな。
 こうしたいい時代も続かない。昭和15年(1940)の暮には市内に多くあったダンス・ホールが士気に影響するからであろう、すべて閉鎖され18年には敵性音楽としてジャズ・レコードの演奏禁止、供出、破棄となった。アメリカではグッドマンがカーネーギー・ホール・コンサートを成功させ大スターとなった。しかしクルーパ、ハリー・ジェイムス、テディ・ウィルソン、ハンプトン等のスター・プレイヤーたちは彼の元を離れ、ベイシー・バンドの台頭、エリントンの最強バンド時代、アメリカのジャズ界が目まぐるしいスピードで動く中、日本も急加速で真っ暗闇に突入して行く。

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