今年の“横濱JAZZ PROMENADE”も楽しかったですね!皆さんは、どのアーティストが気に入りましたか?私は、オランダのルイス・ヴァン・ダイクと我らがKANKAWAに痺れました。
さてジャズの名門レーベルといえば、BLUENOTEレコードが真っ先に思い浮かびます。アート・ブレイキーの『モーニン』など名盤が山のようにありますが、BLUENOTEレコードの最初のヒットは、シドニー・ベシェ(ソプラノ・サックス)による<サマータイム>(1939年6月録音)でした。この演奏はよく知られていますが、ベシェの人物像については日本ではあまり知られていません。実は、このベシェは、音に命を賭ける凄まじい人物でした。
音楽好きの一家の中で育ったべシェは、早熟の天才でした。6歳の時、兄のクラリネットを密かに持ち出し吹き始めました。しばらくして、兄の誕生パーティがあり、フレディ・ケパートのバンドが雇われ演奏していました。するとどこからともなく聞こえてくる素晴らしいクラリネットの音に皆が、気が付きましたがプロも驚嘆する音を出していたのは、わずか6歳のべシェでした。楽器を誰にも習わずに、誰よりもうまく吹けたそうです。
1919年6月、22歳になったべシェは、マリオン・クック楽団と共に、初渡欧しました。ロンドン公演で、クラシックの天才指揮者エルネスト・アンセルメにべシェは大絶賛されました。またこの時、ソプラノ・サックスを手に入れ、ベシェはジャズ・ソプラノ・サックスの開拓者となりました。ところがベシェという人物は、喧嘩っ早くよく問題を起こしました。デューク・エリントン楽団に在籍していた時、3日も遅刻して、怒ったエリントンに「タクシーが遅れた」と言い訳し呆れさせました。もちろん即、首にされました。
1925年、シドニー・ベシェに転機が訪れました。黒人だけのミュージカル「ラ・レビュ・ネグロ」に参加し、欧州ツアーをしました。各地で、人々は魅了されました。ベシェは、欧州の居心地がいいので、そのままフランスのパリに留まりました。
1928年、パリのモンマルトルで暮らすベシェに、生涯最大のトラブルが起こります。ある日、ピアニストがこう言いました。「ベシェ、そこはDマイナー7だ。キーが違うぞ!」と。プライドの高いベシェは、激昂しました。「俺に間違いはない。貴様こそが間違っている!明日、午後4時半に決闘で話をつけよう!!」。翌日、午後4時半、ラッシュ・アワーのパリのど真ん中で、フランス人でないジャズメンが、「どっちのコードが正しいか?」を巡り、拳銃で決闘をしました。ベシェの撃った弾は、狙いを外れ、他の仲間の足に命中し、通行人二人も軽傷を負いました。捕らわれの身になったベシェに下された判決は、15ヶ月の実刑でした。結局、「刑務所を出たらすぐ出国すること」という条件で、11ヶ月で釈放されアメリカに戻りました。
シドニー・ベシェは、まさに人を殺しかねないほど、音楽に真剣だったのです。本当に、音に命を賭けていました。シドニー・ベシェが、ソプラノ・サックスで<サマータイム>を、BLUENOTEレコードに吹き込んだのは、それから10年後のことです。
べシェは、完璧なメロディを作り、自分の音を系統化し、魂を伝えることが出来た稀有の音楽家でした。BLUENOTEレコードの最初のヒットになったシドニー・ベシェによる<サマータイム>の演奏は完璧に美しく、ジャズという印象をあまり与えません。ここまでくるとアートです。
都心に定住しているぼくにとって、横浜は1時間半ほどの電車移動で小旅行感覚が味わえる街だ。みなとみらい地区の夜景の美しさは、テレビ番組などを通じてお馴染みのシーンだと思う。ぼくがジャズの街・横浜を初めて体験したのは、20数年前のこと。夜の横浜をオシャレに楽しむというプランを立て、ホテルニューグランドを予約。はしごするお店の最終候補の1つになったのが「ウインドジャマー」だった。1972年オープンの同店は帆船をイメージした店内デザインとジャズ・ライヴが魅力ということで、1度は訪れたいと思っていたのである。初体験の「ウインドジャマー」は心地良い空間で、さすが横浜の名店と呼ばれるだけのことはあると思った。出演ミュージシャンの名前は忘れてしまったけれど、ギター・メインのコンボが快適な4ビートを奏でていたサウンドだけは、今でも耳に響いている。食事とお酒を楽しんだ後、2件目として入った同店で、ぼくはラムのオン・ザ・ロックをたぶん5杯呑んだ。もしかしたら4杯かもしれないけれど。何しろ20年以上前のことなので、その辺の記憶はあやふやだ。いずれにしても食・酒・音楽・会話のどれもが楽しく、弾んだのだった。由緒あるホテルの居心地も良く、ぼくは横浜の土地に好印象を抱いて帰途に着いた。
実はその後の本格的な横浜話にはブランクがある。中古レコードとCDをかなり熱心にあさっていた時期は、横浜のディスクユニオンへ遠征したり、廃盤専門店に足を運んだこともあったが、あくまでも単発的な出来事だった。ぼくと横浜の関係が密になったのは、赤レンガ倉庫に「モーションブルー横浜」がオープンしてから。「ブルーノート東京」の姉妹店としてスタートした同店は、BNTと同じアーティストをブッキングしつつ、同店独自のアーティスト・ラインアップにも目配りして、徐々に独自性を発揮する。移転後の現在のBNTは300席のキャパシティを誇っているが、モーションはBNTの旧店に近いスペースなので、後方の座席でもステージに近い感覚がある。もちろんのBNTのアリーナ席もステージとの至近感はあるのだが、モーションの作りはアーティストに近い場所で音楽を楽しみたいファンにはたまらないものだ。現在「ノー・チャージ・デイ」も実施して、敷居が高いイメージもある同店の集客にアイデアを打ち出しているのも、音楽ファンには嬉しい。東京在住のファンにとってモーションとの距離が縮まる画期的な出来事があった。オープン初期の交通アクセスは、桜木町から徒歩15分という、あまりありがたくないロケーション。これがネックになってモチベーションが上がらなかったことは、現実問題としてあったと思う。それが劇的に解消されたのは、渋谷発の東急東横線がみなとみらい線と接続して、中華街まで乗り換えなしで行けるようになったこと。同店の最寄駅が桜木町から馬車道駅に変わったことで、同店までの徒歩時間が約半分に短縮された。これは大きい。都内の住民にとって横浜は近いけれど遠いイメージがある。片道1時間半を有意義に利用するアイデアで乗車すれば、この小旅行も楽しくなるはずだ。
最後に横濱ジャズ・プロムナードの話。年々注目が集まるにしたがって、集客が飛躍的にアップしている。TVのニュース番組で見た方もいるだろう。ピクニック的イヴェントというためもあって、どの会場も大盛況。昨年ぼくは大ホールに出演したオランダのビッグ・バンドを立ち見で鑑賞した。着席の方が楽だったが、その余裕もないほどの満席。多くのジャズ・ファンが集った会場の様子を目の当たりにして、足の痛みも苦ではなかったのである。今年も多くの感動を体験したいと思っている。